2018年01月26日

今年も捨てられそうにありません

私は結構ネチネチしていまして、後ろ向きなことの多い性格です。過ぎ去ったことの記憶は無意識のうちに取捨選択されるものですが、どうも捨てられないようなのです。う〜む、たしかに昔のおもちゃとか、とにかく執著心があって捨てられません。何か勿体ないなあとか、何か得なことあるかもとか、また、そもそも思い出に縛られて捨てることが出来ないのです。そしてまた、こう書いていても、なお決して捨てようとは思っていません。重症です。

小学校や中学校での出来事を大人になってから頻繁に思い出します。自分の失敗とか、恥ずかしい出来事とか、何故か後ろ向きなものばかり思い出すんですよ。困ったもんです。楽しいことや嬉しいことも、そりゃ思い出しますが、嫌なことを思い出すことのほうが多いように感じます。なんでかな〜と考えてみましたところ、これは恐らく私の性格に原因があるようです。私、敢えて言えば「こうあるべき論者」なところがあるので、多分それでしょう。

たとえば勉強。結局、勉強はあまり得意にはなりませんでしたが、小学校4年生頃までは優秀なほうだったと思います。もちろん、その後に猛烈に抜かされるのですが、脳だけは早熟だったのかもしれません。また、勉強以外でも小学校では絵や作文はやたらと得意で、よく区の展覧会などに出展されていました。つまり、大人からよく褒められる子だったわけですね。性格も荒っぽくはないので、まあ、いい子ちゃんだったわけです。

しかし、10歳を過ぎたあたりから伸びていかない。周囲の期待は分かるんだけど、どうも才能がなさそうで、しかもそれほど努力家でもない。自分のなかで「こうあるべき」なのに〜、という思いだけが増幅していたのかもしれません。どうしようもないです。高校で諦めました。ま、こんなもんかなって。しかし、それでマイペースに生きることが出来るほど器用ではなく、やっぱりどこか人より秀でていたいという欲求と、それが達成されないことからのジレンマは尽きることなく、今に至るわけです。

性格、つまり心というものは、とにかく厄介です。劇的に変化することはない。仏教的に言えば、すべての行為やその影響の蓄積が心であるからです。蓄積されたものは、自分の意思で捨てることは難しい。自分の心の奥底まで、普段の意思で触れることは出来ません。生まれながらの性格もあることでしょう。しかし、仏教的に言えば、それも前世からの蓄積によって成り立っている性格となります。捨てるということは、とにかく難儀なことなのです。

自分の失敗や恥ずかしい出来事を思い出すというのは、「こうあるべき」自分とかけ離れた現実であったからでしょう。納得できないので捨てられない。いつまでも蒸し返すわけです。こりゃ死ぬまで、いえ、行為やその影響の蓄積は来世に持ち越されるので、一気に解脱できないかぎり、来世でも同じことの繰り返しでしょう。治るもんじゃありません。

(ああ、一気に解脱できる浄土真宗で良かった。)

裏庭に納屋がありますが、そこはもう、私や兄が幼い頃に使ったもの、まだ段ボールに入ったままなんですよね。今年こそ、きれいに片づけようと思っています。ただ、片づけていますと、つい懐かしくなり、古い漫画を読みだしてしまったりするので、まあ、無理でしょう。

ダメなものなダメでいいので、当分このままですね。
posted by 伊東昌彦 at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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