2017年10月28日

浄土真宗や仏教を知るためには

わが家は3人の子に恵まれました。子が生まれ来るということは、とてつもなく不可思議なことです。不可思議とは仏教用語で、私たちの思いはからいを超えているという意味です。こうした状況にあることを、大変有難いことだと感じています。有難いとは「有ること難し」ということで、そうであることが、本来はとても難しいこと、すなわち、多くの因縁が重なり合って、ようやくそうなっているということを意味します。まさに命というのは有難いことだと言えるでしょう。

さて、わが家の教育方針(と言うほどのものではありませんが)は「宗教」です。そりゃまあ、お寺なので当然と言えば当然ですが、「仏教」ではなく「宗教」ということにしています。仏教については、私のしゃべっていることを聞いていれば、何となく分かるかなあと思いまして、あまり重視していません。仏教だけになってしまっても、視野が狭くなってしまうかという思いもあります。浄土真宗を知るためには他宗派の教えを、仏教を知るためには他宗教の教えを、宗教を知るためには社会を、と私は考えています。また、これは逆のことも言えるわけで、社会を知るためには宗教を知る必要があります。日本人社会を知るためには日本の宗教を、欧米人社会を知るためには欧米人の宗教を知ることが大事でしょう。

かつて論文指導をいただいた竹村牧男先生は、ご自身は大学院で華厳学を専攻されたかったそうですが、指導教官の平川彰先生から、「では唯識を勉強しなさい」と指導を受けられたそうで、それで長年唯識の研究を続けられてきたそうです。華厳経は大変奥深い教えが詰まっているので、その理解のためには唯識が絶対必要だということのようです。先生は華厳経の授業のとき、今、華厳経を勉強できて凄く嬉しいというようなことを仰っていました。

浄土真宗を正しく知るためには、まず宗教を学ぶことが必要だと思います。浄土真宗の坊さんが、他宗のことなんて全然知らない、キリスト教やイスラム教のことなんて興味ないというのでは、おそらく浄土真宗をうまく伝えることは出来ないでしょう。3人の子のうち、誰が住職を継いでくれるのか分かりませんが、こうしたことを念頭に子育てをしているつもりです。

さて住職、とりわけ浄土真宗は世襲が伝統的になっていますので、浄土真宗の住職の場合、後継者育成というのは結構な課題です。一般家庭に比べて異質なところがあるのが寺院家庭です。私は寺から離れた場所で「会社員の息子」として育ちましたので、それが良く分かります。詳細は省きますが、とにかく変なところがあるわけなのです。上記のような教育方針も、やはり一般的には変わっていることでしょう。お寺で育ちますと、たしかに家はお寺の一部ですので広めであったり、嬉しいこともありはしますが、同時にお経を読ませられるとか、いきなり境内掃除しろだとか、課せられるものがあったりしますので、子にとっては面倒なことも多いでしょう。

と言うことで、長女も長男も宗教系の学校に進学しています。宗教系の学校は高校からだと入学できないことも多いので、中学から入学ということになりました。中学受験は大変でしたが、高校受験のように学校での成績が関与してくることはあまりないので、むしろ分かりやすいものでした。しかし、本人たちには無理をさせまして、親としても貴重な時間を受験勉強に割かせてしまったことに後悔がないわけではありません。私自身も中学受験をしましたが、小学校6年生の記憶は他学年のときに比べあまり残っていません。頭が悪く、悲惨だったからでしょう。10歳前後に脳を鍛えることは価値あることだと思いますが、それは受験勉強ではなくてもできることですし、難しさを感じました。

2人の学校では礼拝がありますが、長女のほうが出席必須で、長男のほうは自由参加です。倫理等の授業もそれなりにあるようなので、住職としても親としても満足しています。礼拝には私も参加してみたいほどです。仏教の礼拝(→らいはい)は毎日してますが、他宗教のものにちゃんと参加したことはありません。宗教家とはいえ、意外と知らないことも多いわけです。2人にとっては良い学びになると思います。将来、仏教とは無関係な方面に進んでいくかもしれませんが、それはそれで、親としては良いことだと思っています。しかし住職としては・・・、3人のうち誰か1人は頼んまっせ、というのが本音になるわけです。

それぞれの寺院家庭によって教育方針は異なります。学校はとくに気にしないという住職も多いでしょうし、全部仏教系で進ませるという住職もおられることでしょう。正解はもちろんないわけですが、私は宗教心を身近に感じることのできる社会人になってほしいと考えています。自分のなかに宗教心を持ってもらいたいと思っているわけです。宗教心というのは何か特別なものではなく、周囲への感謝の心(→仏教では縁起を知ること)、そして自分よりも大きな存在を感じられる謙虚な心(→仏を感じ、自分のいたらなさに気づくこと)のことでしょう。

宗教心はいつの時代でも大事です。次世代につなげていきたいものだと思っています。

posted by 伊東昌彦 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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