2017年09月29日

浄土和讃から

大経讃 六十九首 

「善知識にあふことも をしふることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」

皆さん、馬が合わない方はいますでしょうか?正直に申し上げまして、私は数人います。嫌いというわけではないのですが、とにかく苦手なのです。たとえば、こちらが言うことに何かと批判的な人。否定された言葉が返ってきますと、どうも下に見られているような気がして落ち着かない。相手の顔を見ると悪気はなさそうですが、こちらは勝手に面白くなくなるわけです。馬が合わないんだなあと、ひとまず自分を納得させています。なんとも情けない話です。

自分に手厳しい人というのは、まるで親のように感じるからでしょうか。子供扱いされるのはあまり心地よいことではありません。もっとも、最近の親は厳しいと言うよりは、友達感覚の親子が多いとも聞きます。仲の良い親子は結構なことですが、子供の躾がいい加減ですと、逆に子供にとっては不利益になることもあるでしょう。少し前の話ですが、子供の悪戯に困り果てた喫茶店が、悪戯を放置する親の入店を断る措置をしたそうで、インターネットでも話題になっておりました。子供は悪戯をしながら成長するものです。しかし、同時に親から叱られることがないと、子供は自分自身を省みる機会を得ることが出来ません。

仏教では自分を教え導いてくれる存在を「善知識(ぜんちしき)」と呼びます。善知識は居心地のよい相手とは限りません。居心地がよいだけの相手は、裏を返せば都合通りということです。心地よい言葉だけが返ってくるので、頭に来ることもありません。とても都合が良いわけです。しかし、自分の都合というものは、自分勝手という側面も必ずついて回るものです。冒頭での私の話も同じこと。批判的であるということは、私の意見にどこか問題があるということに他なりません。間違いを指摘されるのは気分のよいことではありませんが、気づかなければ間違えたままです。

人の意見をよく聞くということは、簡単なようで難しい。仏教は耳の痛いことばかり言うところがあります。「諸行無常」と説くならば、物事移り変わりのなかにあり、私もいつかは死に行きます。「一切皆苦」と説くならば、人生山あり谷あれど、すべては苦悩の連続です。こんな調子ですので、あまりハッピーな気分になるものではありません。しかし、どうでしょうか。いずれも間違いではなく、それを受け入れようとしない私のほうこそ、冷静に考えれば間違えているわけです。

真実を見つめることが出来ないのは、私どもが自己都合の煩悩まみれだからでしょう。迷いの世界に生まれることを輪廻転生(りんねてんしょう)と言いますが、まさに行き場もなく、ぐるぐると回っているだけなのです。耳を傾けることすら出来ないのですから、善知識に出会うことも難しく、すでに救われていることすら気づこうとしません。しかし、だからこそ阿弥陀如来は、私どもに一歩先んじてお救い下さっているのです。まずはよく聞いてみるということ、これこそ浄土真宗の仏道であると言えましょう。

※本稿は「やさしい法話」へ寄稿したものの原文です。

posted by 伊東昌彦 at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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