2017年09月14日

神仏のなかで生かされる

あまり政治には詳しくない私ですが、最近よく日本の伝統ということと政治が絡めて用いられることを目にする機会が増えたような気がします。もちろん政治的に保守系の方々が使われることが多いのですが、果たして日本の伝統とは何なのか、私自身、まだまだよく分かっていません。宗教的には神仏習合が1つのヒントになることは確かだと思いますが、それだけで全てが説明できるわけではありません。仏のほうはまだ体系的だと言えますが、神のほうは単純に神道とは言えない側面もあり、極めて複雑なのではないでしょうか。そして、そもそも何をもって日本を捉えるのかも問題です。雰囲気としては感じられても、具体性に欠けるのが日本の伝統であるような気もします。普遍的なものがあることは確かなんですけど、少なくとも私にはそう思えます。そして、日本の伝統ということが、とても大事な概念であるがゆえ、安易に国民を扇動するための道具に使われることに、やや違和感を覚えつつあります。

何を保守すべきなのかもよく分からないのに、ただ昔に立ち返ろうとか、何でも現状維持がいいとか、こういうのは保守でも何でもなく、思考停止なだけなのではないでしょうか。進歩していくことは思考し続けることですが、実は結構な労力がいることです。今のままが何でもいいというのは、日本の伝統はおろか、現状にさえ目が向いていないのでしょう。問題点に目を向けないからこそ、それに蓋をして現状維持とする。自分は保守だと言う方には、意外とこういう輩が多いように感じます。私はどちらかと言えば保守的な立場で物事を考えるたちですが、ちゃんと思考は続けていきたい。そして宗教的に言えば、ちゃんと神仏と自分自身を対比させ、自らの至らぬ点を知るような努力も何とか続けていきたい。日本の伝統ということを考えたとき、神仏に対して謙虚であること、人間中心の思考から抜け出すということ、こうした点は押さえてもらいないなあと、1人の宗教家として思います。人間の力が万能だと思うことは、とても愚かな発想です。

posted by 伊東昌彦 at 09:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/180993577
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック