2017年05月20日

南足柄市関本について

関本一考 〜寺院存在の視点から〜

善福寺住職 伊東昌彦

足柄峠を鎌倉方面へ下って竜福寺交差点に差し掛かると、その一帯が関本地区である。街道沿いにはかつて旅籠が散在し、宿場町であったことを窺わせる。寺院も数ヶ寺残されており、その創建年代から類推すると、鎌倉期から室町期にかけて人の往来が増えていったと考えられる。それ以前も関本は海老名に次ぐ規模の宿場町であったようだが、鎌倉幕府が開かれると関本の重要性も増したことであろう。京から東国へ向かうためには足柄峠を通らねばならず、しかも峠には魔物が潜むとも考えられていたことから、関本が安息の地であったことは想像に難くない。

竜福寺交差点には時宗龍福寺があり、まさに関本の中心に立地している。龍福寺の檀家は関野家をはじめ旧家が多いことから、名実ともに龍福寺が関本の中心であったとしても的外れなことではないだろう。宿場町には様々な人々がおり、武士階級から芸能民や遊女が混在していたと思われる。龍福寺は時宗開祖の一遍上人の直弟子、他阿真教の創建にかかるが、時宗の名は「時衆」、すなわち「その時代を生きる様々な人々」に由来すると言われ、芸能民や遊女と言った封建制の外にある人々と関連が深い。関本に龍福寺が創建されたということは、当時の関本がいかに多様性に富んでいたかということを物語っていよう。

さて関本近辺を俯瞰してみるならば、西には酒匂川支流の狩川が流れ、さらに西には箱根外輪山の明神ヶ岳がそびえている。「明神」ヶ岳とは読んで字のごとく「神が明らかになった」山であり、信仰の対象であったことを偲ばせる。神祇信仰では本来、社を建てることはなく、自然にあるそのもの自体が信仰の対象となる。狩川を渡った先は神の世界であり、人の世界である宿場町関本とは対照的である。また、その麓には極楽寺があり、まさに「あの世」への入口としてもイメージされていた可能性もあろう。極楽とは西方極楽浄土、西の彼方にあるとされる阿弥陀如来の浄土である。極楽寺は狩野にあるが、近隣には塚原という地名が残されており、この「塚」が墳墓から来ているならば、狩川を渡った先は神や先祖の世界との境界であったとも考えられよう。「三途の川」からも分かるように、川というものは界を分かつ重要なポイントである。

明神ヶ岳の中腹には大雄山最乗寺が15世紀初頭に創建され、極楽寺がそのベースキャンプのような役割を果たしたと言う。なぜこの地が選ばれたのか、もちろん天狗伝説などの伝承はあるが、実際には山からあふれ出す神の「霊力」を、大陸伝来の仏の力で鎮める意味合いもあったのではなかろうか。異界への入口として考えられてきた場所であるが、そうではあっても、人の管理下に置いておきたいという願望が最乗寺創建につながったのかもしれない。人の世界である狩川の東岸から、西岸の神の世界にまで人が入り込んでいく様子を窺い知ることができるであろう。

関本は人の往来からも分かるように、「生」の象徴として繁栄していったと考えられる。人は死を意識しながら生きるものであるが、死は恐怖であると同時に、願望として超克したい対象でもある。狩川西岸を人の管理下に置くということは、「死」の象徴とも言える土地を神から手に入れるということであり、それは死を超克していくことでもあった。現在、明神ヶ岳への信仰が残されていないことは、こうした事柄と無関係ではあるまい。神は時として人に災いをもたらす存在であり、災いを避けるために神を接待して「祭る」必要があった。関本近隣には古代からの神社が現存していない。人は神をも手に入れてしまったのであろうか。

posted by 伊東昌彦 at 06:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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