2019年04月07日

怨憎-その捨て方

仏教で説く「四苦八苦」のうち、2つは人間関係の苦しみになります。つまり「愛別離苦」と「怨憎会苦」で、愛しい大事な方との離別、そして怨み憎たらしい人と会わねばならぬことです。とても現実的です。お釈迦様もお悟りの前は悩まれたことがあるのでしょう。仏教ではこうした苦悩の解決策を自己に求め、苦悩を分解して原因を1つ1つ消去していく方法を編み出しました。原因にはすべて何らかの執着心が関与しています。大事だと思う心は清らかではあっても、過度の思い込みは苦悩につながります。憎たらしいと思う心も、都合の悪いものを排除したがる自己への執着心が見えてきます。

お葬式はまさに愛別離苦であり、ご遺族の方の苦悩ははかり知れません。これを即座に執着心として一括りにしてしまうのは暴論ですが、時間をかけて振り返って見ればそう思える時も来るのかもしれません。有限性のなかで生きているのが私たちですので、離別はやはり避けては通れない真理と言えるでしょう。

お葬式は非日常と言えますが、日常的には例えば彼女に振られたとか、そういう場面も愛別離苦であり、場合によっては非常な苦しみを伴います。純愛と狂愛は紙一重と言いますか、それを思わせるような事件が頻繁に起きていることからも苦悩の大きさを窺い知ることができます。また逆のことを言えば、怨憎会苦は日常的に嫌いな人と会わねばならないことの苦悩であり、むしろこちらのほうが日常性が高いと言えそうです。

私も怨憎会苦を持ち合わせています。仏教では怨み憎む心を捨てることこそ、怨憎に打ち勝つ唯一の方法だと説きます。これは一般的に言ってとても難しい。だから瞑想して心を落ち着かせる必要があります。日頃、掃除をしているとき、車を運転しているとき、注意力は必要なのですが思考は空いているような時間が結構ありますので、こういうときは瞑想に準ずることができます。苦悩をとらえ、苦悩の原因を探り、原因は消去可能であることを知り、それを実践することができれば、おそらく苦悩は消えていくわけです。しかし、何より難しいのが最後の実践です。四苦八苦などの知識を得た上で、瞑想によって最初の3段階までは意外と簡単に進めることが可能かと思います。

怨みや憎しみというものは、言い換えれば自己都合に不適合な部分の排除です。排除しなければ都合を押し通すことが出来ないので、自然に排除する方向に向かうのでしょう。もしかしましたら、生命の生存競争ということと関係があるのかもしれません。根が深そうです。

捨てるのが一番なのですが、捨て方ですよね。捨て方が難しいんだと思います。普通の生活をしながら、どうやって捨てれば良いのでしょう。むしろ、持ちながら捨てるということにヒントがあるかもしれません。私も悩んでいます。

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2019年03月30日

学歴社会の難しさ

昨日、教育委員会辞令交付式に参列してきました。開式時間ギリギリになってしまい、毎度のことですが申し訳ございません。ご定年になられる先生方のほか、ご退職・ご転任になられる先生方が大勢来られていました。教育長の言葉のなかに、点数だけにとらわれる教育ではなく、その先につながっていく教育を目指すという内容がございました。私も賛同いたします。点数、つまりペーパー試験で良い点数を取ることは、児童・生徒にとりましては勉強の第一義とも言える事柄です。しかし、先生方や保護者からしますと、点数を重視しながらも、同時にそれ以上に児童・生徒の将来への展望を持たねばならない。教育の第一義は決して点数ではないと思います。

日本はある程度学歴社会ですので、たとえば一部上場企業に入社したければ、その会社が設ける学歴のフィルターを通過しなければなりません。また、今最も人気のある国家資格と言える医師になるためには、事実上、医学部医学科へ進学しなければなりません。私も大学で就職活動にあたる頃、父の勤務する会社もしくは関連会社の様子を父へ聞いたところ、悲惨なことに一蹴されました。ちなみに父のみならず母もその会社出身であり、かつ大伯父がかつて役員でありましたが、それでも私なんかではダメなのです。もしかしたら、業界として私には向いていないと父は考えたのかもしれませんが、学歴としてダメだともはっきり言われました。

こうしたこともあるので、試験で点数が取れるようになることは日本では意味あることになります。将来の目標が学歴に関与するのであれば、頑張って点数取るしかないでしょう。会社がなぜこうした学歴フィルターを設けるかと言えば、簡単に言えば手っ取り早いからだと思います。会社は教養があり、その会社にとって有為な人材が欲しいのですが、入社希望者の評価を一からやるとなると時間がかかって仕方がない。今までの経験からして、学歴で判断しても問題ないことが多かったので、多くの会社で学歴が入社判断の主要基準とされるのでしょう。ということであれば、それを否定するのは教育とは言えません。

ただし、ペーパー試験の出来不出来が人物評価の中心になるような社会は異常ですし、試験が得意だというのはその人のひとつの側面でしかありません。試験難易度の高い学校を出たからといって、その人が本当に社会にとって有為な人物かは計り切れません。社会で何をしたのかということのほうが重要でもあります。学歴フィルターは会社という小さな枠内であれば機能するでしょうが、社会は一部上場企業だけで成り立っているわけではないので、教育現場において、ペーパー試験だけに意識を注がせるような指導には関心出来ません。試験はあくまでも通過点であり、通過しなければならない関門ではありますが、それは将来、ひいては人生の目的でもなんでもない。

今も昔も、たとえば東大に何人入ったとか、東大東大とだけ連呼するような高校は、はっきり言って教育を放棄していると思えます。東大に何人入ったということが高校の評価になるならば、こんな簡単なことはない。東大に入るのは難しいことだけど、そういう学校にしたいのであれば、塾と同じことをすればいい。塾のノウハウを学校に注入し、大きく特待生枠を設け、入学試験を何回もやったりして有能な生徒を入学させることが出来れば、おそらく10年もすれば東大に合格する生徒が増えてくる。でも、それは塾がやる仕事でしょう。塾は教育を支えてはくれていますが、決して教育を主目的にしているわけではない。塾は営利が主目的であるのだから、東大に何人合格させたというのが宣伝になっていい。

しかしながら、学校は違う。私立学校でも学校法人であれば営利第一であってはならないはずです。もちろん、学校であっても経営していかねばならないので、生徒が集まらねば苦しい。集めるためにはどうするのか、誰でも思いつくことはいわゆる進学実績を上げることでしょう。保護者にとっては、出来れば高い実績のある学校に子を入学させたい。その実績のなかに子が入るかは未知なのですが、少なくともその学校に入学できれば、その権利を得たかのような錯覚に陥る。本当は子自身が入学後に努力をしなければならないわけですが、親というものは愚かなもので、そう思ってしまう。いい会社に入るためには学歴が重要だし、だから進学実績ばかりに目が行ってしまう。

何だか悪循環です。進学実績ばかりアピールする学校が増えたからなのか、それとも進学実績ばかりに目が行く保護者が増えたからなのか。この時期、学校別の東大合格者数が週刊誌やネットに出ますが、主観ですが昔よりも一部の学校に合格者が集中しすぎているような気もします。そりゃ成績優秀な学校はそれはそれでいいんですが、そのからくりは何なのかなあと考えますと、上記のような状況もあるかと頭に浮かんでしまいます。東大に子が入学できれば嬉しいことですが、無理に押し込んでも意味がないし、入学が目的になって欲しくない。その先がどうなのか、そこまで考えての東大であれば大いに応援するところだけど、東大東大とだけ連呼している学校は、ちゃんと生徒一人一人の将来も見据えて連呼しているのか、私には分かりません。

社会に出れば、自分が数値化されて評価されることもしばしばです。しかし、それはあくまでも便宜上のことであり、会社等の限られた範囲で許されていることでしょう。数値化が一般的となれば、これは恐ろしいことです。そんな社会にはなってほしくないなあ。そして、保護者として親としても、試験の点数などの数値で子の出来不出来を判断したり、そこばかりに目が行く子に育ててしまうことがないよう、気をつけたいとも思っています。皆さんの周囲にも、学歴はそれほど高くなくとも、立派だなあと思える人がいらっしゃることでしょう。人は多様性の塊です。学歴だけではない。私たちはひとつの側面だけを切り取って話題にしがちですが、少なくとも人に関することであれば、それは慎重になりたいものです。

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2019年03月25日

思い出補正

皆さん、「思い出補正」という言葉を知っていますか?これはネット上で使われ始めた言葉なので、あまり古いものではありません。しかし、なかなか言い得て妙だと思うのです。たとえば昔のアニメについて、どうしても幼い頃に見ていたアニメには思い入れがあるものです。現代のアニメと比べてみても、やはり昔の、あの時のアニメに勝るものはないと思えてしまう。今のアニメはあそこがダメだとか、ここががダメだとか次々に文句は出るのですが、昔のあのアニメは無批判に近くいいのひと言。

具体例を挙げれば、ガンダムの最初のやつと、最近のガンダムを比べるときなんかが当てはまります。明らかに古いほうが荒い部分が多いわけなんですが、それでも良い印象が心に焼き付いているのでしょう。私も聞かれれば、当然のように最初のガンダムのほうがいいと答えます。つまらない都合の悪い部分は忘れているんだと思います。その証拠に今、第1話からすべて観賞し直そうとは思いません。多分、つまらなくて第3話ぐらいで挫折することでしょう。たまに動画サイトなどで、面白い部分だけを観るからいいのかもしれません。

私は思考がネガティブなほうなので、物事を悪いほうへ考える癖があります。まあ、そもそも仏教ってのは楽天的な思考回路ではないので、生来の性格に加えて、仏教を学んだことも影響しているのかもしれません。良く言えば現実的であり、物事が奇跡的に上手く行くなんてことは考えもしないほうです。こんな私ですら、やはり「思い出補正」はかかるものなのです。不思議ですよね。過去のことになりますと、ネガティブな側面は忘却の彼方なわけです。

しかし、だからこそ生きていられるのでしょう。辛いことは忘れたいという思いは誰しもありますし、それをいつまでも昨日のことのように憶えていては辛さは増すばかり。うまく「思い出補正」されるように出来ているのです。冷静に考えて、補正がないと実際は結構ひどいもんだと思います。昔好きだった人であっても、おそらく今会わないほうがいいでしょう。補正されているからいいんです。年取れば昔と同じなわけないですし、幻滅するよりは補正のなかで楽しんでおくほうが得策でしょう。

仏教的に言いますと、それこそ自己都合の塊だということになります。現実直視が仏教なので、補正は意味がないということになりますが、そこは固いこと言わず、補正のなかで迷っているのが私であるならば、だからこそ救いの仏様はいらっしゃるわけですし、それでいいんだと思います。ネガティブ思考で、かつ原理原則を重んじてしまう頭の固い私ですが、少し柔らかくなってきたような気もします。インド仏教にはあまりない発想ですが、中国日本仏教においては、迷いも含めてあるがままを大事にする側面がありますので、それはそれでいいんだと勝手に納得するのです。

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2019年03月10日

無理すると苦しい

今日はちょっと法事が遅い時間なので午前中ひまです。

突然ですが、私は群れない方針で生きてます。単に友達少ないだけじゃん、ではなく。自慢星人なのでたくさんの人とつき合うと自慢疲れしてしまうからです。これを言い換えれば、あんま多様な人とつき合うとペースが乱れるから。大勢と知り合って会話をすることは大事なことだけど、どうも私には出来ない。だからいつまでたっても器ちっちゃいんだけど、「これでいいのだ」と最近開き直っているわけです。これでいいのです。

人生は苦だと仏教では説きます。なぜ苦しいのかと言えば、理に反して無理なことするから。無理とは理が無いことで、「そりゃ無理だよあんた」ってことでしょう。仏教では四苦と言いまして、生と老と病と死です。最後の死について言えば、「死にたくないって言っても、この世の命は有限だからねえ、無理ですね」となります。無理なこと通そうとするから苦しいことになると言うのは、たしかにその通りだと思います。まあ、普段から「それ無理それ無理」言ってると、やたら消極的でつまらん奴だと思われるから、あんま口にはしないほうがいいですが。

いずれにしても大人数は苦手で、なんでも少人数制がいい。バンドも人数少ないほうがいい。飲むのも少ないほうがいい。大人数だったら独りのほうがまだいい。すごい独善的になりそうだけど、もとよりそんな性格なので社交性があるとは言い難く、何事も独自路線になりがちで、結構な大失敗もするんですよ。誰にも相談しないから、ははは。でも、それでも自分で責任負えるようであれば、なんかスッキリしません?


私は会社勤めは難しかったでしょうが、坊さんだったらから何とかなっているだけかもしれません。お寺は多くの場合、とくに浄土真宗は家族でやっていくことが多いので、支えてくれる家族には感謝です。

人生は苦の連続で、それは自分で管理できるものばかりじゃありません。無理はしたくなくとも、無理しないといけない時もあります。誰でも無理はしたくない、そんなこと分かり切っていますよね。しかしその上で、しなくてもいい無理までしているのが私たちではなのかもしれません。辛いとこです。

私も大人数の飲み方にも出かけることありますし、色々な会や組織に属しているので、たくさんの方々とつき合うことは意外と多いほうだと思います。勉強になることも多く、多様なつき合いをすることは大事なことだと重々承知しています。そうではあっても、やはり群れないほうが自分にはしっくりきます。生き方に強いこだわりを持っているわけではありませんが、生きたいように生きたいと思うのです。難しいこともありますが、できればそうありたいと最近思っています。

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2019年03月06日

運転に出るその人の精神

車を運転しているとイライラもあります。小心者だから普段は大人しいけど、ハンドル握ると強気になってしまう。嫌ですよね〜。私です。不思議ですよね。人対人だとビビるのに、なんで車対車だと豹変するのか。車内にいるからか、外からは丸見えなんだけど。私のみならず、最近よくドライバー同士のトラブルがあるようで、皆でイライラが募っているのかなあ。

若いころ、やはり悪っぽくするのがカッコいいもんだと思ってました。バンドもやってたし、バンドの人って悪っぽく見える人多いでしょ。でも、いいバンドってのは、どこか真面目なとこがあって、チャランポランに見えても真剣にバンドやってるから曲もいい。主張や精神を精一杯歌詞にしたり、ギターやベースやドラムの求道者にようになっているのは、やっぱり真面目にバンドに取り組んでいるからだと思う。

私が好きなバンドって、着ているもの普段着なんですよ。派手な服装やメイクでいかにもロックスターってのも好きなんだけど(それはそれで真面目だから)、最終的には普段着バンドがいいようになったなあ。まあ、カッコの問題はどうでもいいんですが、心を打つのはそのバンドの精神に共感するからなんでしょう。人はやっぱり精神なんだと改めて思います。

車を運転するってことは、社会において結構重大なことです。下手すれば人命に関わるわけだし、真面目に取り組んで当然でなければならない。社会は多くの人々で成り立っているのだから、そのなかでの行動はチャランポランじゃ困る。固い言い方になりますが、運転だってちゃんと真面目に取り組まないといけない。大事なことに真面目になれるというのは、これはその人の精神によるところも大きいと思います。

マナーの良い運転は美しいし、何よりその人の精神の美しさを具現している。精神が美しいということは、チャランポランではなく真面目であって、初めて成し得ることではないでしょうか。そこに本当の格好良さというものはあるわけで、ちゃんとしているほうが余程カッコいいもんだと、昔々、母親に言われた言葉の意味がこの年になってようやく分かりました。

美しく、格好の良い運転を心がけたいものです。・・・とは言いましても、根が小心な私は運転でトラブルになったことはありません。少しばかり小心のほうが、むしろ良いこともあるかもです。

posted by 伊東昌彦 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii