2018年06月16日

四論の講説さしおきて

(本稿は「やさしい法話」へ寄稿したものです)

「四論の講説さしおきて 本願他力をときたまひ 具縛の凡衆をみちびきて 涅槃のかどにぞいらしめし」

ご讃題は七高僧のお一人であります、曇鸞大師についてのものです。曇鸞大師は現代の中国・山西省のお生まれで、南北朝時代(五世紀から六世紀)にご活躍をされました。他力と自力とを明確に分けられたことで知られ、中国浄土教の礎を築かれました。非常に博識な方であり、仏教のみならず道教にも精通していたと言われます。仏教の学問では「四論」と呼ばれる『中論』・『百論』・『十二門論』・『大智度論』を極められ、その上で浄土教の実践をされました。孤高の学僧というよりは、巷間で浄土教を広め、大師のもとには大勢の信者さんが集まってきたということです。

四論は大乗仏教の空思想を論じたもので、同じく七高僧の龍樹菩薩が深く関わっている論書です。空思想はすべての存在には固定的な実体というものがなく(=空)、刻一刻と変化をしていると考えます。私たちはさまざまな物事に執着してしまいますが、空思想によるならば、もとより執着をするような実体はないということになります。執着をすることは自分を苦しめるので、それを諌めるために空思想は展開していきました。空であることを体得することにより、本当の涅槃に至ることができると大乗仏教では説いたのです。

しかしながら、曇鸞大師はこの空思想についての講義を、集まった信者さんへただ聞かせていたわけではないようです。大師の考える空思想とは、浄土教の実践に組み込まれているものであり、あくまでも阿弥陀如来のご本願をいただくことにあったからです。私たち凡夫の執着するところは、私たちの生死についてのことが最も大きいでしょう。身体は滅びゆくものであり、刻一刻と死へ向かっているのが私たちです。空思想によるならば、身体へ執着することは意味のないことです。すなわち、この世を去ったのち、必ずお浄土へ参らせていただくからには、もはや身体への執着は無用となりましょう。

四論の学問は難解ですが、ご本願にはその真髄がすべて含まれています。大師は難解な講義をされるよりも、より実践しやすい方法、つまり本願他力を明らかにして下さったのです。四論の文言に向いますと、思わず退いてしまいそうなほどではありますが、阿弥陀如来の浄土教において導いて下さったことは、大きなご恩であるとしか言いようがありません。また、中国の南北朝時代より千五百年の時を超えまして、曇鸞大師の教えが今ここに、私どもの手元に届いているということ、『高僧和讃』をお作りになられた親鸞聖人へのご恩も忘れてはなりません。浄土真宗の日々の生活は報恩感謝です。少しでもご恩に報いることができるよう、有難くお念仏申したいものです。

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2018年06月13日

新幹線の事件の報に触れて

新幹線の事件で亡くなられた方は、長男が通う学校の先輩でした。Men for others,with othersを校訓にする、キリスト教カトリックの教えによった学校です。とは言いましても、信仰が強要されることはまったくなく、キリスト教に基づいた倫理教育をしている学校というほうが正確かもしれません。長男は寺の息子なわけですが、宗教は強制されるものではなく、自覚的に身につけていくものだと思いますので、学校選びの際にはとくに気にしませんでした。奇異に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、今のところ優れた倫理教育を行っている学校であると感じており、大変満足しています。

仏教では利他行が重んぜられまして、自己よりもまず他者を優先的に悟りへ至らせることの重要性が繰り返し説かれます。これは多くの宗教で説かれることでしょうが、やはりキリスト教でも大切にしている事柄のようです。しかし今回の事件の報に触れまして、利他行の重みを再確認させられると同時に、今一度その意義について考えさせられました。他者を思う気持ちがなければ、この社会は滅茶苦茶になってしまいます。その点で利他は社会的に必須な精神ではありますが、自己存在と直接対比したとき、本能的になかなか越えることの出来ない一線があるのも事実です。簡単に言えば、この事件のような状況において、自己が犠牲になる可能性のある行動は誰にでも出来ることではありません。また、個人としては可能でも、家族を思えば難しいというのは誰でも感じることでありましょう。

仏教では捨身供養と言いまして、お釈迦様の前世を語る際、自らの肉体を犠牲にして他者を救われたお姿の描写が多くあります。教えとして、これはどういった意義があるのでしょう。単に極端なレアケースを示して印象を深めようとしているだけなのか、それとも皆がこのように生きねばならないという啓示なのか。とても難しいテーマではありますが、1つ言えることは、とてもじゃないけど自分には出来ない、と思うと同時に、そんな自分であっても、どうやって利他の精神で生きていくことが出来るであろうか、と思考を重ねていくことは誰にでも出来そうだということです。教えというものは、何事も自分自身に引き寄せて思考してみるということにこそ、本来的な意義があるからです。

長男にお風呂のなかで事件についてどう思うか聞きましたが、まずは「あんなことしないほうがいい」と返してきました。しかし、彼の行動で他の乗客の方々へ被害が広がらなかったとしたらどうか、と再度尋ねたところ、何やら湯舟で考え込んでいました。Men for others,with othersの後輩として、長男にも自分自身の問題として思考してもらいたいと思います。先輩から後輩へ、Men for others,with othersが伝わってくれれば、子を学校に通わせている親として嬉しいかぎりです。

毎日、たくさんの事件が起きます。倫理観が薄くなっている昨今、日本の社会はどのような方向へ向かっていくのでしょうか。公立の小学校中学校でも道徳が教科になるようですし、倫理・道徳が軽んぜられない社会であることを願ってやみません。

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2018年05月25日

Rockをもて仏教す

のこす記憶.comのコラムで新しいシリーズを始めました。私はロック好きなので、仏教とロックを無理矢理、かなり強引にくっつけてみました!

Rockをもて仏教す Part 1

Reality’s a dream
A game in which I seem to never find out just what I am
I don’t know if I’m an actor or ham
A shaman or sham but if you don’t mind, I don’t mind

ロックの歌詞から個人的に面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈を施してみたいと思います。そもそも社会の諸事象というものは、とくに仏教に基づいて存在しているわけではありません。そうであれば、むしろ本来の存在意義とは別の角度で、仏教的な見方をしてみることのほうが実りありそうです。作詞者には失礼ですが、それぞれの曲の主旨はさておき、少々図々しくチャレンジしてみたいと思います。

まずはイギリスのパンクバンド、BuzzcocksのI don’t mindから引用してみました。いきなり現実は夢なんだと言うところ、かなり仏教マインドあふれています。そしてさらに、現実なんて自分が何者なのか分からないようなゲームなんだと。大根役者なのかも分からんし、インチキ霊媒師なんだとしても、君が気にしないのなら、自分も気にしない。気にしないってというところも、とても仏教していて私は好きです。

かつて日本仏教においては、夢も現実に準じる、いえ、霊的にはそれ以上の価値で捉えられていたようです。夢のお告げです。夢だからこそ、直接、自分の心に語りかけてくると思うことは、あながち荒唐無稽というわけではありません。現実においては私たちの五感がかなり敏感に作用し、心を落ち着かせることは難しいことです。霊的な作用というものは五感ではなく、心に作用するとするならば、肉体的には寝ている状態である夢のほうが効果的でありそうです。

そもそも、今、私たちが思い込んでいる現実存在というものは、本当に真実だと言えるのでしょうか。私たちは大根役者やインチキ霊媒師かもしれませんし、上っ面なところだけをなぞって生きているに過ぎないとも言えるかもしれません。でも、真実をまた解明しようとすることが正しい生き方かと言いますと、そうとも言い切れません。なぜならば、何が真実であるかを判断するような智慧を、私たちは持ち合わせていないからです。

であるならば、そのまま、気にしないでいいじゃないか。あんたもいいなら、オレもいいよっていう、肩の力を抜いた生き方をしたほうが、むしろ真実に近づけるかもしれません。仏教的に言いますと、真実というものは何か特別なものと言うよりは、あるがままを、あるがままに受け取ることによって見えてくるものかもしれないからです。こだわらない生き方とも言えるでしょうか。押しつけがましいのはやめてくれって、そんなところでしょう。

善福寺 住職 伊東 昌彦

のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/
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2018年05月17日

ロータリークラブ

小田原北ロータリークラブという団体に入会しておりまして、今期は執行部になっております。たまたま会長がお休みでしたので、私が例会の挨拶を行いました。はじめてでしたが、なんとか役を果たすことが出来たかと思います。以下、こんな話をしました。

本日は会長に代わりまして挨拶をさせていただきます。南足柄市で教育委員を昨年11月から拝命しております。保護者枠ということで、PTA会長をしていたからだと思いますが、今までも住職が就任することはあったようです。まだ就任してから日が浅いのですが、多少気になることも出てきましたので、お話したいと思います。昨今、勉強の出来る子とあまり振るわない子の差が開いているようで、教育委員会でも学力の引き上げに意識を注いでいるようです。たしかに、私がPTA会長をしているときも、そう感じることはありました。これは何故かと言いますと、地域によって事情は異なるとは思いますが、日本経済が振るわないということも一因ではなかろうかと思います。ある校長先生が仰っていましたが、地域の工場が撤退すると、一気に学校が荒れだすことがあるそうです。保護者が職を失いますと、家庭環境に直接影響を及ぼします。勉強どころではないという状況に陥ることは容易に想像が出来るでしょう。ロータリアンは職業奉仕が大切です。会社経営というものが、実は地域の教育にも関与しているということ、教育委員を通じて知り得ることが出来ました。これからも頑張っていきたいと思います。

以上です。ちなみに、ロータリークラブというものは、自分の職業を通じて社会奉仕をしていくという理念があります。仕事がそのまま奉仕活動なんだという発想だと思います。古来、西欧では神父や牧師はもちろん、医師、教師、弁護士などの職業も、神からの使命によって果たされるべき職種だと考えられていたそうです。その精神をすべての職種に広げようということで、使命感をもって仕事に臨むことが求められているわけです。

日本はキリスト教文化圏ではありませんので、宗教的な使命ということになりますとイメージが湧きにくいことではありますが、これを日本的な共生の精神に置きかえることも出来るかと思っています。つまり、日本では神仏もふくめ、すべての命が共存しているのだと考えることが多いでしょう。共につながりのあるなかで生きているわけで、自分の行いが他者にも関係してくるということであれば、よりイメージははっきりとするのではないでしょうか。これこそが日本的な「使命」とも言えるかもしれません。

ロータリークラブは宗教団体ではありませんので、それぞれの信ずるところで解釈して良いでしょう。私はこのように考えています。

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2018年05月06日

ゴールデンウイーク

皆様、連休をいかがお過ごしでしょうか?

私は毎年、ゴールデンウイークには意外と骨休めが出来るわけです。坊さんはあまりちゃんとした休日はないのですが、この時は法事もほぼなく、また、ご参拝の方もかなり少なめになるので、1泊で箱根付近に行くことが多いのです。最近、結構ストレスたまっているなあと感じていたので、少しはリラックス出来たかと思っています。

ところで、こうした連休ではなく、日頃のちょっとしたストレス発散の方法をお持ちでしょうか?スポーツをしたり、様々な趣味の時間を持ったり、それぞれでしょう。ゲームをするという方もいるでしょうし、ストレス発散になれば大人でもいいんじゃないかと思います。私もたまに昔やったゲームをします。やり方を新たに憶えなくて良いので、昔のゲームのほうが楽なのです。

また、夏が近づくと日が長くなるので、夕方から一杯やるのが最近のお気に入りです。まあ、2杯ぐらいで帰宅するのですが、ほろ酔いで気分がいいので楽しみになっています。かつて、中野の新井薬師門前の交差点に間口の広い焼き鳥屋さんがありまして、幼い頃、遠目で眺めていた記憶があります。たしか昼間からやっていたような…。母親からは近づかないよう言われていたかと思うのですが、今、行ってみたいなあ。

ちなみに、中野ブロードウェイの地下には、「デイリーチコ」という名であったか、巨大ソフトクリームの店がありまして、多分まだあるのと思うので、家族を連れて行きたいと思っています。昔は左右で違う店だったと思うのですが、いつの間にか、と言いましても40年近く前の話ですが、2軒が一緒になったような記憶です。違ったかなあ。

その頃、向かって右手におでん屋さんがありまして、その奥に讃岐うどんの店があって、よく母親に連れていってもらいました。ソフトクリーム、おでん、うどん、この3点セットを良く覚えています。しかし、おでん屋さんから讃岐うどんに行く手前にサーティーワンが出来まして、私はサーティーワン派になってしまったわけです。ダイキュリアイスが好きでしたが、今はもう存在しないようです。無念です。

新井薬師には15年ぐらい行っていないので、そろそろ郷愁を感じてきました。母親の実家がまだありまして、叔父がいるのですが、元気にしているかなあ。昔は従兄弟もよく新井薬師に来たものですが、それぞれ家庭があるので集まることも今はありません。ちょっと寂しいですね。法事がこうした縁を結んでくれるものなのですが、法事自体、皆を呼んで営むということが難しいこともあり、小規模になりがちです。前回は私たち家族だけで営みましたが、次回は皆に積極的に声掛けをしてみようかと思います。
posted by 伊東昌彦 at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii