2017年05月23日

さよなら!おばさんデカ 桜乙女の事件帖 ザ・ラスト

市原悦子さん主演の『さよなら!おばさんデカ 桜乙女の事件帖 ザ・ラスト』(主演:市原悦子、編成企画:太田大・橋口愛、プロデューサー:赤司学文)』が5月12日(金)にフジテレビ系で放送されました。本シリーズのファンである方も多いと思いますが、本作でシリーズ終了とのことです。ちょっと残念です。本作のロケ地には南足柄市も使われておりまして、善福寺もお葬式のシーンに登場しました。

撮影のとき、私は遠くから見学させてもらったのですが、まったく関係ないにもかかわらず緊張してしまいました。しかも私がボケっとしておりますと、共演の佐藤B作さんがこちらに来られまして、「宜しくお願い致します」と深々と頭を下げて行かれました。もちろん私は恐縮してしまっていたのですが、ほんの数十秒のシーンとはいえ、ロケ地にしっかり礼を尽くされる姿に接し、視聴者としてとても嬉しい気分になりました。

ちなみに撮影の様子です。
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2017年05月20日

南足柄市関本について

関本一考 〜寺院存在の視点から〜

善福寺住職 伊東昌彦

足柄峠を鎌倉方面へ下って竜福寺交差点に差し掛かると、その一帯が関本地区である。街道沿いにはかつて旅籠が散在し、宿場町であったことを窺わせる。寺院も数ヶ寺残されており、その創建年代から類推すると、鎌倉期から室町期にかけて人の往来が増えていったと考えられる。それ以前も関本は海老名に次ぐ規模の宿場町であったようだが、鎌倉幕府が開かれると関本の重要性も増したことであろう。京から東国へ向かうためには足柄峠を通らねばならず、しかも峠には魔物が潜むとも考えられていたことから、関本が安息の地であったことは想像に難くない。

竜福寺交差点には時宗龍福寺があり、まさに関本の中心に立地している。龍福寺の檀家は関野家をはじめ旧家が多いことから、名実ともに龍福寺が関本の中心であったとしても的外れなことではないだろう。宿場町には様々な人々がおり、武士階級から芸能民や遊女が混在していたと思われる。龍福寺は時宗開祖の一遍上人の直弟子、他阿真教の創建にかかるが、時宗の名は「時衆」、すなわち「その時代を生きる様々な人々」に由来すると言われ、芸能民や遊女と言った封建制の外にある人々と関連が深い。関本に龍福寺が創建されたということは、当時の関本がいかに多様性に富んでいたかということを物語っていよう。

さて関本近辺を俯瞰してみるならば、西には酒匂川支流の狩川が流れ、さらに西には箱根外輪山の明神ヶ岳がそびえている。「明神」ヶ岳とは読んで字のごとく「神が明らかになった」山であり、信仰の対象であったことを偲ばせる。神祇信仰では本来、社を建てることはなく、自然にあるそのもの自体が信仰の対象となる。狩川を渡った先は神の世界であり、人の世界である宿場町関本とは対照的である。また、その麓には極楽寺があり、まさに「あの世」への入口としてもイメージされていた可能性もあろう。極楽とは西方極楽浄土、西の彼方にあるとされる阿弥陀如来の浄土である。極楽寺は狩野にあるが、近隣には塚原という地名が残されており、この「塚」が墳墓から来ているならば、狩川を渡った先は神や先祖の世界との境界であったとも考えられよう。「三途の川」からも分かるように、川というものは界を分かつ重要なポイントである。

明神ヶ岳の中腹には大雄山最乗寺が15世紀初頭に創建され、極楽寺がそのベースキャンプのような役割を果たしたと言う。なぜこの地が選ばれたのか、もちろん天狗伝説などの伝承はあるが、実際には山からあふれ出す神の「霊力」を、大陸伝来の仏の力で鎮める意味合いもあったのではなかろうか。異界への入口として考えられてきた場所であるが、そうではあっても、人の管理下に置いておきたいという願望が最乗寺創建につながったのかもしれない。人の世界である狩川の東岸から、西岸の神の世界にまで人が入り込んでいく様子を窺い知ることができるであろう。

関本は人の往来からも分かるように、「生」の象徴として繁栄していったと考えられる。人は死を意識しながら生きるものであるが、死は恐怖であると同時に、願望として超克したい対象でもある。狩川西岸を人の管理下に置くということは、「死」の象徴とも言える土地を神から手に入れるということであり、それは死を超克していくことでもあった。現在、明神ヶ岳への信仰が残されていないことは、こうした事柄と無関係ではあるまい。神は時として人に災いをもたらす存在であり、災いを避けるために神を接待して「祭る」必要があった。関本近隣には古代からの神社が現存していない。人は神をも手に入れてしまったのであろうか。

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2017年05月19日

ドムドムが売却

mixiニュースによりますと、「ダイエー子会社のオレンジフードコートが7月、国内初のハンバーガーチェーン「ドムドムハンバーガー」を、ホテル事業などを展開するレンブラントホールディングスに売却することが分かりました」とのことです。さて皆さん、ドムドム知ってます?

実は私、幼稚園の頃からドムドム愛好家だったのです。とは言いましても、もちろんここ何十年も足を踏み入れていませんが、あの二番煎じ感が最高でした。しかし、なんと国内初だったとは知りませんでした。ってことは、国内では二番煎じではなかったわけで、大きな間違いをしていたわけです。申し訳ございません。

中野の新井薬師前にドムドムはありました。しかも幼稚園の友だちの親戚の方が経営しており、そんなことで頻繁に行ったのです。彼女元気にしてるかなあ、背が高くて、よくいじめられたような気が・・・。いえ、結構面白い子だったのですが、なんせ上から見下ろされるような具合でしたので、いじめられていたわけではありません。

彼女との思い出は1つ鮮明に憶えているものがあります。幼稚園のバザーか何かの打ち合わせで、母親が幼稚園に来ていたので、私もそのまま残りました。彼女のお母さんも一緒で、その流れで私と彼女は二人で段ボールを使ってF1カーもどきを作成したのです。それがやたら楽しくて、何が楽しかったか良く分からないのですが、とにかく楽しかった記憶として残っています。

衝撃的だったり特別なことではないのですが、無性に楽しかったことの記憶ってありません?私はネガティブ思考で嫌なこと覚えているたちなので、こういう思い出は大事にしたいなあ。

しかしまあ、そのドムドムも売却されてどうなることやら。

ところでもう1つ、これまた中野の話なんですが、小学生の頃、中野駅南口線路沿いにあった「ぶQ」というスパルタ進学塾に通っていまして、その近所にファーストAという、これまた二番煎じ感たっぷりの店がありました。あれはどうなったんだろうかと、まだ健在なのか・・・。健在なわけないと思うけど、懐かしい。

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2017年05月15日

小田原市と南足柄市の合併問題について、勝手に一言

〜活気がないことが最大の問題〜


小田原市と南足柄市では「中心市のあり方」についての議論が進んでいます。両市合併を想定しての試算などもされているようで、市民にとって市政を考える機会になっていると思えます。一般論として人口減少が確定的であるなか、従来の市民サービスを維持するために合併するというのはあり得ることでしょう。

ただし、こうした合併話は感情論で支配されることも多く、地元がなくなるのではないかという不安はつきものです。冷静に将来をイメージすることが大事だと思います。近視眼的に判断することなく、若い世代にとって何が必要なのかということを長期的視野で議論できれば、合併ごときで地元が消滅するなんてあり得ません。歴史を振り返るならば、合併は今までも繰り返して来ているわけですし。


たしか南足柄市は人口が4万人ちょっと、そして小田原市は19万人ぐらいです。手間や費用などの効率からすれば、南足柄市が編入するという形態になりましょう。実際、そのような方向で議論が進んでいるようです。もちろん、編入する側の南足柄市民としましては、やや面白くないところもあるでしょう。まるで地元が消滅してしまうかのような危機感を覚えるでしょうし、旧小田原市から下に見られるのも面白いことではありません。ただし、小田原市へ買い物に行くことが多い南足柄市民ですから、そのようになってしまえば、いつの間にかこうした感情もなくなっていくのではないかと私は思います。


<よそ者視点で見てみると>
政治や経済の問題や、昔からの市民の方々がどう思われるかということは分かりませんが、10数年前に引っ越してきた身としまして、以下のようなことを漠然と感じています。

・南足柄市は市として小さすぎるし、病院など生活に最低限必要な部分を市外に頼っている。
・規模の割りに市域が大きすぎて、管理が行き届いていない場所が目立つ。
・産業や工場の誘致が上手くいっておらず、働く場が少ない。
・そもそも市に活気や魅力がないので、若い世代は引っ越してしまうことが多い。

・JR線と小田急線ともに直結していないので、南足柄市という名が都心に届くことはあまりない。
・歴史的には宿場町、そして大雄山最乗寺の門前町であったが、あまりアピールがない。
・金太郎伝説と関連がある土地柄だが、具体性に欠けるので観光客も困る。
・大雄山駅の駅舎は素晴らしいが、その雰囲気を保つ意識が周囲からは感じられない。

もちろん主観で偏ってはいますが、こういったことはすぐに頭に浮かびます。歴史深く自然も豊か、そして都心からも比較的近い距離にありながら、随分ともったいないことしているなあとも思います。観光資源なんて山ほどあるように思うのですが、住んでいると気がつかないものなのかもしれません。

ちなみに、語弊があるかもしれませんが敢えて言いますと、東京からこちらを見れば「箱根」しか目に入らないことが多いでしょう。神奈川県だと認識してもらえるのか微妙なところでもあります。南足柄市はほとんど箱根外輪山である明神ヶ岳なのですが、南足柄も「箱根」なんだという認識は市民には皆無かも。これは観光面ではとても残念なことで、もう少し上手くやれないのかと前から思っています。


<地名は消滅しない>
また、よく地名が消滅してしまうことを懸念される方がいますが、地名と市名は本来異質なものです。地名が消えるということはありません。市名はあくまでも行政区画ですので、番号でもいいぐらいだと私は思っています。味気ないかもしれませんが、歴史的に小田原藩であった場所であっても、現在の行政区画で小田原市ではない場所もあります。そもそも小田原市は小田原という地名が代表になっているだけであり、その程度のことになります。他にも横浜市は分かりやすい一例となりましょう。一方、地名というものは、その土地の形状や環境や様子、そして生活者たちの風俗習慣から、自然発生的に名づけられるものであり、本来は行政とは無関係なものでしょう。足柄という名は古い古い地名ですが、決してなくなることはありません。そもそも、足柄という地名からするならば、「南」足柄という命名の仕方にも疑問点があります。個人的には小田原市になるよりも、南足柄市という名であることのほうが歴史を捉えておらず、人工的かつ滑稽だと思います。なんで関本なのか、なんで塚原なのか、ちゃんと歴史的背景を捉えていると思います。

いずれにしましても、小田原市と合併することによりまして、上に箇条書きした事項はある程度解消されるとは思いますが、効果はあまり大きくないかもしれません。一時的には良くなるでしょうが、合併により少子化が解消されたり、人口がより増えていくということには簡単にはならないでしょう。単純に大所帯になって、市民サービスが低下することだってあり得ます。問題がないわけでは決してありません。


<活気がない>
暮らしやすくするため、まず何より必要なのは活気ではないでしょうか。たとえば観光であれば県西部の新たな拠点として、まったく新しく盛り上げていくことが大事だと思われます。そのためには小田原市との合併だけではなく、箱根町との連携も模索しないといけません。箱根山を中心に周遊できるような長い観光コースがあってもいいと思います。欧米のように長期滞在できる新しい観光に活路を見出すことだって可能でしょう。誇れる地元にしていくことは、この地域の人口減に歯止めをかける大きな力になるはずです。ただし今の南足柄市だけでは、箱根町にとって連携するメリットはないでしょう。どうすべきかは、すでに答えが出ているように思います。


県西部には小さな自治体が割拠していますが、とても閉鎖的で内向き姿勢が表れているかのような印象です。それぞれが自治体としての機能を保持しており、おそらく無駄も多いんじゃないかなあ。なんでバラバラなのか、とても不思議です。こういうのは郷土愛でもなんでもなくて、感情的に変化を嫌っているだけのような気もします。変化することは勇気のいることですが、継承できる芯があれば変化は怖くないことは自明です。

物事は変化です。仏教でも諸行無常と言いまして、この世界は変化し続けています。大切なことは変化を認めていくことと、次世代に継承できる活気を残していくことではないでしょうか。

善福寺住職 伊東昌彦
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2017年05月05日

善悪とスターウォーズ

この連休かなりスターウォーズを観ています。日頃から息子たちと観ているのですが、その3倍ぐらい。ディズニー映画になったとはいえ、幼少の頃から慣れ親しんできたその世界観は変わっていません。善悪の明確な対立軸は西洋的な思考を感じますが、そこにフォースという神秘性が加わり、東洋人である私であっても、親近感を継続できる仕上がりになっているような気もします。気のせいかもしれませんが。

善悪は人にとって難しい問題です。何を基準にするのかで善悪なんてコロコロ変わってしまうからです。裏を返せば、善悪を抜きにして人を語ることは出来ないわけで、善のない世界、悪のない世界、どちらも人の世界ではないと言えましょう。スターウォーズであっても、宇宙人を含めて人の世界であるのですから、善悪が共存するのは当然のことです。悪が滅んでハッピーエンドでは、あまりにもご都合主義として言いようがありません。

フォースには善悪両面があるそうです。これは創造者であるジョージ・ルーカスが果たした最大の功績ではないかと思えます。もしフォースが善のみであり、そのフォースを使って悪を打倒するというのであれば、よくあるハリウッド映画になっていたことでしょう。まあ、それも気分爽快で良いのですが、何回も観ようとは思わないかも。

仏教においては、仏というものは非善非悪とも言うべきあり方で、人の善悪を超えていると考えます。悪も否定して、なおかつ人の善も否定していくのです。これは誤解を招くかもしれませんが、人の善というものは、上にも書いたように基準や状況で変わってしまうものです。その人都合なのです。これは極めて表面的な善であると言えましょう。悪と表裏一体であるとも言える。一方では善に見えても、他方では悪に見えてしまうからです。善ということを考えるならば、非善非悪という立場で考えていかないと、結局は善悪から抜け出せないのかもしれません。何だか小難しいことですが、人は勝手なところがあるということ、忘れてはならないことだと思います。

これからのスターウォーズでは、どうやら善悪がテーマになっていくようなのです。悪が打倒されて善の世界になったかのように見えても、ふたたび悪が勃興していく。では善とは何なのか、善だと思っていたことは善ではなかったのか・・・、とても楽しみです。