2016年12月01日

丑三つ時でした

正午とは1日を十二支に当てていた手法のなか、午の正刻である昼12時のことです。とまあ、今さら言うようなことでもないのですが、では「丑みつどき」とは何時頃でしょう。子丑寅・・・、と並ぶので、まあ夜中の1時から3時なんだろうなあとは分かります。私はこんな適当なイメージで「丑満つ時」だと思っていました。丑が深まった時間ということで、おそらく2時〜3時なのではなかろうかと。

「丑三つ時」でした。え〜、丑は二番目だし何でだ。

と思いましたら、1時〜3時の2時間を四分割したうちの三番目、という意味だそうです。というわけで、今の2時〜2時30分ということになります。

子供に適当なこと言ってたなあ。こっそり訂正しておこう。

今じゃ寝ている時間ですが、学生時代は遅くまで起きていたので、この時間ちょっとコンビニでも行こうかと外に出ますと、ものの怪がいそうな雰囲気ですよね。20年以上前のことです。

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2016年11月24日

雪が降る

今日は雪ですね。雪が降ると条件反射的にアダモの『雪が降る』を思い出します。アダモ氏は諸言語で歌われたそうですが、私はまったくの言語音痴です。翻訳すると微妙に意味が変わってしまうかもしれないのですが、日本語で歌ってくれると嬉しいです。たとえば英語が分からん人にとりましては、洋楽と邦楽は聴いている脳の部位が異なるのではないかとさえ思います。英詞を文章で読んで理解していますと、洋楽も邦楽のように聴けるような気もします。ただまあ、私が読んだ英語なので間違ってそうですが。

お経も同じです。日本ではお経、つまり経典は漢文で読みますので古い中国語読みです。音(おん)は経典輸入当時の中国語ですが、イントネーションはなく音だけです。ちなみに、現代中国語で読むと全く違う響きになります。経典は外国語文献なのです。さらに言えば漢文経典も翻訳されたもので、原典はサンスクリット語であったりします。原典と漢文経典を比べますと、かなり意味が異なっていたりして興味深いことがあります。ただし、違う意味で受け取ってしまった場合、インドでの仏教理解と異なる理解をしてしまっていることとなり、言葉の壁があることを感ぜずにはいられないこともあります。

たとえば極楽浄土。この浄土は日本では覚りの世界と同じように受け取られますが、原典では「スカーヴァティ」と言いまして、「幸あるところ」という程度の意味になるようです。私たちの住む世界に比べれば覚りに近い環境ではありますが、そのものズバリというわけではありません。翻訳をされて、様々に解釈されるうちに受け取り方に変化が生じたのでしょう。

しかし、だからこそ出てきた教えもありまして、単なる誤訳や誤った解釈だとするのは早計です。翻訳経典であっても、真摯に経典に向き合うことにより、原典の意味を日本的に再構築することは可能です。大切なことは経典の心を読み取ることではないかと思います。

洋楽でありましても、何が言いたいのか理解することができれば、細かいことは問題ではないかも、知れませんね。

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2016年11月17日

東国真宗研究所

東国真宗研究所のサイトにおきまして、筑波大学名誉教授の今井雅晴先生に善福寺を取り上げていただきました。先生は関東におけます親鸞門弟の研究もされていらっしゃいます。善福寺開基上人は平塚入道了源と言いまして、親鸞聖人の直弟子とされております。謎の多い人ですが、いつか了源上人についての単行本を出せればと思っています。

http://shinrankyun.com/?news=%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E3%81%A8%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%80%80%E5%89%8D%E7%B7%A845%E5%9B%9E

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2016年11月12日

前世と来世‐輪廻‐(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

前世と来世 ‐輪廻‐

よく簡単に前世や来世と言いますが、私どもの思惟を超えている事柄であることは間違いないでしょう。私との関係に測定可能な質量があるわけでもなさそうですし、実証することは不可能としか言いようがないからです。しかし、気になります。私はどこから来て、そして、どこへ行くのでしょうか?

仏教ではこうした実証不可能な心配事の解決策として、まずは思惟しないという方策を取ってきました。日常的な心配事の解決を優先するわけです。有名な「毒箭(矢)のたとえ」では、もし体に毒矢が刺さったならば、そのままの状態で毒矢の分析をするよりも、まずは抜いて治療を優先させよと説きます。つまり、今すぐに解決すべきことは前世や来世のことではなく、まずは日頃の思い煩いの除去に努めよと言うのです。

そうは言いましても、やはり生老病死の四苦とも言いますし、生死に関することは最も気になることでもあります。仏教はこの実証不可能な事柄について、様々な思い煩いを分析するなかで、1つの結論に到達いたしました。

インドには古くから「業」(ごう)という考え方がありまして、人の存在は「その人の行為やその影響」(=業)によって決まるとされます。仏教ではこの業は心に蓄積され、その発動によって、生まれる世界が決まるのではないかと考えたのです。業の考え方と心の存在を結びつけたわけです。

業とは今に言う「データ」であり、業によって心は成り立っています。そして、その心にさらに業が蓄積されていくのです。心は業に基づいた世界を現象させ、現世という今を私たちに見せているのです。きわめて単純化しますと、悪業によって悪なる世界が現象され、善業によって善なる世界が現象されます。つまり、世界は心によって成り立っているわけであり、地獄に落ちるというのは、悪業によって地獄世界が現象されるということを意味します。

私たちは「私」を主体的に考えがちですが、業こそが「私」としてのステージを作り出しているのであり、私とはそのステージを生きる「意識」に過ぎません。そうであるならば、前世や前々世といった過去にこそ私の原因はあり、さらに言えば、来世を現象させる業には今の私も含まれていきます。私の行為やその影響も原因となって来世は決まってくるのです。私という「意識」が続いていくのかと言えば、それは業として継続していくのでしょうが、こうした業の繰り返しを続けている限り、そのステージに適合した意識が発動されるのだと考えられます。この繰り返しを「輪廻」と言うのです。

ただし、仏教はこの輪廻から解脱する方法を究明します。 (次回へつづく)

のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/


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2016年11月04日

報恩講が終了

報恩講の修行を無事に勤めることができました。今、心の底から安堵しております。年間で最も大切な行事ですので、毎年色々と神経を使うわけです。元より小心者の神経質なので、大丈夫かと心配になってしまうのでした。

◎お逮夜は鎌倉能舞台による献能「花月」でした。

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動きが多い能でしたので、間近で鑑賞できたことは幸いです。仏教説話のなかには、幼少の頃にさらわれてという話は多くありまして、かつての社会を偲ぶことが多少できたかと思います。

◎お日中は茅場町いとう医院の伊東佳子先生による健康講座でした。

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骨粗しょう症についてお話をいただきまして、普段の食事の大切さを改めて知ることができました。野菜をあまり食べない私にとりまして、身にしみる思いでありました。菜っ葉を食べよう!!

たくさんのお参りをいただきまして、誠に有難うございました。
お聖人様のご縁によりまして、貴重な時間を過ごすことが出来ました。

合掌
posted by 伊東昌彦 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge