2022年05月20日

ブログは長文で読みにくい性分

最近ブログを書く間隔が長くなってきてしまいました。自分でブログ開設をしておきながら、普段あまり他の方のブログを読むことも少なくなっています。ブログは一方的に情報発信することに長けていますが、読者との交流という面では扱いづらさがあります。今はいろいろな方の意見がネット上で見られる時代です。ブログ開設者が提供する話題を読者同士で忌憚なく議論出来れば良いのですが、そういう役目はツイッターや掲示板に強さがあります。ブログをやる場合でも、ツイッターなどのSNSと連携したほうが良いとも言われます。

とまあ、よく言われることを書いてみましたが、このように長文になるのがブログの強い面でありながら、一方、時代的には長文は敬遠される傾向にあります。私も実際、あまり長い文章をネット上で読もうとは思いません。自分で長文書いておきながら変な話ですが、ブログは自己満足に陥りやすいということでしょう。

性格的に交流下手なので、こうした一方的かつ自己満足系の情報発信が好きと言えば好きです。今後も本ブログは続けます。しかし、本ブログが利用している「さくらのブログ」はどうやらブログには後ろ向きのようで、新規開設はもう出来なくなっています。あまり利用する人もいないのでしょう。仕方ないです。

私もスマホを見ている時間が長くなりましたが、スマホだと画面も小さいせいか長文は読みません。動画も3分以上のものは見ないと思います。元よりせっかちな性分なのですが、必要なところだけかいつまんで見ておしまいなのです。カップラーメンも3分が限界で、5分の赤いきつねであってもカタ麺状態で食べてしまいます。ウルトラマンも3分だし、なんだか小さい頃から3分というのに慣れ親しんでいるかのようです。

ツイッターは短文投稿なので、読み手としては私の性格にピッタリです。ただし短文を書くのが苦手で、どうもこう冗長になってしまいます。困ったもんだなあと、最近、思っています。

考えてみますと、実は経典も同じかもしれません。百巻とか五十巻といった大部の経典はたしかに専門家には必要ですが、人気のある経典は『阿弥陀経』一巻や『般若心経』一巻とか短いものです。声を出して読むのに適しているというのもありますが、あまり長いのも読みづらいですよね。途中で飽きますし。ははは

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2022年05月12日

『御伝鈔』上巻 第三段「六角夢想」

「救世(くせ)菩薩はすなはち儲(ちょ)君(くん)の本地(ほんじ)なれば、垂迹(すいしゃく)興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。」

ご讃題は『御伝鈔』の「六角夢想」の段になります。親鸞聖人が京都の六角堂に参篭されたあと、振り返って語られた仰せとなります。六角堂で聖人は救世菩薩から夢告を得られ、世俗のなかで仏法を広める決意をされます。出家のできない凡夫がそのままで救われる道、浄土真宗のみ教えを広めるため、ご自身も結婚をして在家生活を送られたのです。救世菩薩は六角堂のご本尊であり、観音菩薩のことを指しています。六角堂は聖徳太子のご建立で、ご本尊の観音菩薩像は太子の念持仏であると伝わります。親鸞聖人は太子を日本における教主として尊崇されており、教えを乞うために参篭されたのでしょう。

この「六角夢想」では救世菩薩の夢告が肝要なのですが、今回は救世菩薩と聖徳太子、そして阿弥陀如来の関係についてお話をいたします。浄土真宗では阿弥陀如来をご本尊としますが、お寺の本堂には聖徳太子のご絵像も脇に掲げられています。しかし、救世菩薩はおられません。これはどういうことなのかと言いますと、仏教の考えには、本地(=本体)としての如来や菩薩は、人々を救うため世間に仮のお姿になって垂迹(=出現)される、というものがございます。ご讃題もこの考え方に立脚しておりまして、救世菩薩は儲君、すなわち聖徳太子の本地であり、仏法を興隆させるため、聖徳太子ご建立の六角堂でその尊容を示されたというのです。

聖徳太子は救世菩薩が世に出現されたお姿であり、それはつまり観音菩薩であるということです。親鸞聖人は観音菩薩から夢告をいただくことにより、ご自身の歩みを大きく進められました。と言うことは、浄土真宗のお寺のご本尊も六角堂と同じく、観音菩薩であってもおかしくはないようにも思えます。しかし、そうではありません。

『無量寿経』には観音菩薩は阿弥陀如来のもと「最尊第一」と説かれます。言うなれば、観音菩薩は阿弥陀如来の一番弟子なのです。観音菩薩が尊容を示されたということも、それは阿弥陀如来のはたらきによっています。『御伝鈔』ではご讃題に引き続き親鸞聖人の仰せとして、「今の行者、錯(あやま)りて脇(きょう)士(じ)に事(つか)ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」ともございます。つまり、観音菩薩は聖徳太子の本地でありますが、さらに阿弥陀如来が観音菩薩の本仏であるということになるのです。観音菩薩や聖徳太子は脇において崇めるべきであり、礼拝するご本尊はあくまでも阿弥陀如来ということになります。仏教ではたくさんの如来や菩薩が説かれますが、こうした関係を知っておくと理解が深まります。

(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)



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2022年04月16日

オンライン併用にしてよ〜

コロナ禍において完全もしくは一部オンラインという状態が一般化しました。複数人が集う会議、そして机上で成立する授業はオンラインと親和性が高いと思います。もちろん人は相手を認識する際、平面的というより立体的に認識し、周囲の雰囲気も含めてコミュニケーションを図ります。ですから平面的なオンラインだけでは完全なコミュニケーションにはならず、上記のような会議や授業であってもオンラインだけで終始してしまっては成果は不完全です。直接リアルに対面して相互確認することを任意のタイミングで入れこむことは必須だと感じます。

しかしオンラインを導入して、対面しなくとも解決できる場面をいくつも発見できました。移動がないので時間をより有効に使うこともできました。大勢が時間と場所を揃えるのって、よく考えたらとても難しいことだったわけです。ただ、なぜか完全リアル対面にこだわる人もいます。私にはとても不思議でなりません。せっかく便利になったのになあ。オンライン併用が理想的なスタイルだと思うのですが、ダメな人もいるのでしょう。リアルで参加したい人だけ行けばいいじゃん、って思ってしまうのです。出不精なので。

ところでわが宗派はとても古い体質ですが、会議でのオンライン併用には対応が早くとても有難かったです。そして今後もオンライン併用でいくとのことで、おお、いつものパターンとは違う。どこか進化したのかと思っていたのですが、どうやら会議での交通費支給をしなくて済むからという理由らしく、ああ、それもそうだなと。たしかに費用面での効率は良いです。そこもオンライン併用の利点ですよね。わが家はたいてい中心地から遠いので、実際に交通費は比較的かかるのです。

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2022年04月14日

注射はいつも苦手です

4月14日付けのNHKの報道によりますと、「ワクチン接種でも得られるタイプの抗体については、いずれの都府県でも96%以上の人が持っていましたが、厚生労働省によりますと今回の結果からは発症や重症化などの予防に十分な免疫があるかどうかは分からないということです」とのことです。え?そうなの?

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220414/k10013581281000.html

先日3回目の接種を受けました。3回すべてファイザーです。1回目と2回目は副反応ほぼなし。3回目は12時間後に発熱が24時間ほど、ひどい倦怠感が48時間ほど続きました。似たような報道は以前にもあったかもしれませんが、もっと早く明確に報道して欲しかった。予防にならないんじゃ、素人的には意味ないかと思ってしいますねえ。

もうなんか手段と目的がひっくり返ってて、大丈夫かな厚労省。

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2022年04月08日

地元小学校の入学式に参列しまして

小中学校では要支援の児童生徒が増えていると聞きます。先日、役目で地元小学校の入学式に参加しました。校長先生からは、式における要支援の新入生への対応の説明がありました。要支援の新入生は数名でしたが、人員配置などかなりご苦労をされている様子が窺えました。この対応は6年間継続して行われます。この学校では最大で600名以上の児童がいた時期もあったそうですが、今はその半分の人数であるとのことでした。少子化ではありますが、要支援の児童生徒は増えているようです。

しかし、私には何故増えているのかが謎でした。私は団塊ジュニアですので多くの児童生徒がいる時代でしたが、私が小学生のときからまだ40年ほどしかたっていません。40年でそんなに生活や家庭環境に変化ありましたでしょうか。たしかに昔に比べれば、今は両親がともに就労することが多い時代ではあります。また、核家族化がより進んだというのも確かです。しかしこうしたことは後天的な影響にはなるかもしれませんが、先天的な要因にはなり得ません。要支援であることは先天的なものかと思います。

ただ1つ言えそうなことは、昔も要支援の児童生徒は多かったけれども、とくに支援されていなかったということです。私の通った小学校にも、今なら要支援だろうなあというクラスメイトが学年に1人いました。授業中に外出するのは日常茶飯事でした。しかし、特別な支援はされていませんでした。担任の先生はご苦労されていたかと思いますが、クラスメイトもそういうつもりで、一緒に何とかうまくやっていたように記憶しています。もしかしたら他にも今で言う要支援に該当するクラスメイトもいたかもしれませんが、あまり問題視されていなかったと思います。

昔に比べて今は支援が厚くなったというのが、もしかしたら要支援の児童生徒が見た目には増えたと言える要因なのかもしれません。支援があるということは有難いことです。ただ、その支援が本当に正しい方向性を持っているのかというと、それは少し考えるべき部分もあるかもしれません。そもそも皆で学校に行って、皆で同じ授業を受けて、ある一定の時間それに従って行動するというのは、よく考えれば誰しも出来るということではないでしょう。私も授業に集中するのは苦手なほうで、よくよそ見をしていて叱られました。もたないんですよね。時間が長くて飽きるのです。

学校というシステムは大人数を教育する上で極めて効率的ではありますが、人はそれぞれ性格も何もかも違うので工場生産のようにはなりません。どうすべきかは今の私には分かりませんが、何でも同じように当てはめていく方法には根本的な欠陥があるように感じます。このコロナ禍において、問題はありながらもリモート授業ということが試行錯誤のなか行われました。こうしたあり方は決して緊急避難的なものではないと思います。教育にはリアル対面でないと難しいところもありますが、部分的にはリモートも有益です。児童生徒の教育がもっと良い環境になっていくことを切に願っています。

posted by 伊東昌彦 at 16:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii