2017年08月11日

生まれでバラモンになるのではない

陸上のサニブラウン選手、凄かったようですね。まだまだ若いですし、これから大いに期待できそうです。私は東洋大学で仏教を学びましたので、桐生選手を応援していましたが、最近はちょっと調子落としているのかなあ。リレーに期待です。頑張ってほしいと思います。

ところで、当たり前ですがサニブラウン選手は日本人なので、日本代表になっています。彼の名前や風貌からでしょうか、色々と不満を持っている方もいるようですね。誹謗中傷はやめるべきですが、しかし、日本人とは何なのか、という疑問を持つことはとても大事なことです。

よく「日本人の血」がというような言葉を聞くこともあるかと思いますが、遺伝子のなかに「日本人」がインプットされていることは、おそらく、というか確実にないでしょう。なぜならば、「日本人」という概念は後天的な思考上のものであり、文化そのものだからです。

お釈迦様は説かれました、「生まれでバラモンになるのではない、行いによってバラモンになるのだ」と。バラモンとはヒンドゥー教の宗教者のことです。バラモンになるためにはバラモン階級に生まれないとダメだったようですが、お釈迦様はそうした「生まれ」よりも、その後の「行い」を重視されました。

サニブラウン選手はいわゆる「ハーフ」なので、法律的にもまったく「日本人」として問題にならないわけですし、彼は生まれも育ちも日本なので、おそらく普通に「日本人」でしょう。どこに問題があるかと言えば、それは我々第三者が勝手に思い描いている「日本人」というイメージが、意外といい加減なものだってことかと思います。

posted by 伊東昌彦 at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2017年08月01日

経論の教えから 『般若心経』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その1 『般若心経』

色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。

「色」というのは物として捉えられるすべての現象のことです。そして、現象に過ぎないということは、何かが実体としては存在しない、すなわち「空」であるということです。固いと思われる物であっても、いつかは崩れ去っていく。私たちは感じ取れる物にこだわりを持ちます。そこにずっとあると思い込み、絶え間ない変化のなかに自分がいることに、なかなか気づくことが出来ないでいます。

これは心についても同じことです。心もまた変化をしています。つまり、心と体で成り立つ自分という存在もまた現象なのであり、刻一刻と変化をしているのです。健康であったとしても、老病死は避けられることではありません。私たちはいつまでも変わらないことを願いますが、叶うはずもないことを知っているはずです。しかし、叶わないことは苦しい。

こうした理に反した執着心が自分自身を苦しめているのですが、理に沿った生活というものは難しいものです。僧は本来、そのために普段の生活を捨て出家をしてきました。理を追及してきたわけです。日本では厳密な意味での出家は根づきませんでしたが、その反面、生活のなかで理を洞察していくような実践がなされました。日本仏教は生活とともにあると言えるでしょう。

変化する現象ではあっても、そこに何も存在しないというわけではありません。変化があるからこそ、現象は無限に広がっていきます。文字通り、可能性は無限大なのです。「空」とは虚無ではなく、何でも受け入れるような柔軟性を示してもいます。日々の生活のなかで息苦しさを感じるのであれば、それは自分自身に起因するものです。どこかに執着してしまい、柔軟性から遠ざかっているのでしょう。

理を学び理解しつつも、どうしても理に反してしまうこともあるのが私たちです。それはそれでまったく問題ありません。この世に完全なものなど存在しません。不具合があれば補正する。この繰り返しが宇宙の営みなのです。仏教的思考は原因究明から始まります。この苦しみの原因は何なのか。それを知ることが出来れば、補正の道が開けてくるかもしれません。ただし、他者のせいにすることは間違いです。すべては自分自身の問題として受け止める。これも仏教的思考の大事な点です。

のこす記憶.com
https://nokosukioku.com/note/


posted by 伊東昌彦 at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2017年07月22日

三十三回忌法要を若手僧侶が行う

日航機墜落事故から満32年を迎えるということで、三十三回忌法要を若手僧侶が行ったようです。40代以下ということでしたので、年齢的には私も同じぐらいです。おそらく小学生のとき、この事故の報道に触れたことでしょう。ご遺族の方々がどのようなご心境でおられるのか、私には思いはかることが出来ません。大変な事故であったという記憶とともに、もう三十三回忌なのかという、どこか他人事のように感じてしまう自分に恥じ入るばかりです。坊さんはお経読んで、人の話を聞いておくぐらいしか出来ないわけですが、それでもなお、こうして袈裟をつけて行動することは、多少なりとも人々の心を潤すことになるかもしれません。

ちなみに、写真を見る限りにおいて、どうやら浄土真宗系の坊さんはいなかったかな。参加されていたら申し訳ないです。浄土真宗でも三十三回忌法要をしますが、鎮魂や慰霊はしませんので、その意義が前面に出ている時は足並みを揃えづらい。今回はどうだったのでしょう。しかしまあ、教義的に認められないのは分かりますが、そんなこと一般社会ではどうでもいいことなんじゃないかな。坊さんは坊さんなんだから、自分たちだけ不参加というのは、もういい加減やめたほうがいいと思う。仏教教団は危機的状況なんだし、今だからこそ、もう一度、鎮魂や慰霊について再考すべきでしょう。

もちろん、たしかに浄土真宗は即成仏なので、即成仏じゃない宗派の方々と話をしていると、個人的に擦り合わせるのは結構難しい。違和感があるのは間違いないんだけど、そこは「慣れ」だと思います。しっかり勉強をしていれば、おそらく慣れることが出来る。私もようやく、本当にようやく慣れつつあるような気がしています。浄土真宗は組織が大きく、色々と自分たちだけで出来てしまうことがあります。だからでしょうか、他宗派との連携には消極的なところがある。大組織に属することの弊害の1つだと思いますが、視野が狭くなり、自己都合での判断に満足してしまうのは良くないことです。
posted by 伊東昌彦 at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2017年07月13日

時間の経過は早いもので

昨日、44歳になりました。もちろん、家族は誰も気づかず。さ〜と1日が過ぎ去っていきました。諸行無常です。学生時代はついこの間のように思えますが、もう20年も経過してしまったようです。時間の経過というものは不思議なものです。時間という前提に人はいるのか、それとも時間なんて気のせいなのか。仏教は後者の立場です。諸行無常だから時間があるように思えるだけと観ます。諸行は心によっているので、心に変化がなければ時間なんて存在しません。

さて、時間はどう考えるべきなのでしょう。入不二基義先生の『時間は実在するのか』(2002年、講談社現代新書)を読んでみようと思います。

posted by 伊東昌彦 at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2017年07月03日

六福寺めぐり 2017

6月29日(木)に「南足柄 六福寺めぐり お坊さんとQ&A」が開催されました。26名のご参加をいただきまして、六福寺をめぐったあと、南足柄市女性センターでQ&Aをいたしました。ご参加の皆様方、有難うございました。心より御礼申し上げます。

InkedDSC_0042_LI.jpg

写真は弘済寺での護摩祈願の風景です。手前の太鼓、私が打たせていただきました。護摩に参加するのは、もちろん初めてです。皆様の願いはちゃんと仏様に届いたでしょうか。リズムがいまいちでしたので、ちょっと心配です。

posted by 伊東昌彦 at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge