2019年08月19日

今週は巨人戦でドームに行きます

今年も無事お盆を終えることができました。この脱力感がたまりません。まるで中高時代の中間期末試験後のようです。「あれやろこれやろ」と思っていても、いざその時になると「何しようかなあ〜」となるのです。中高時代はそれで結局ゲーム、ドラクエ。昨日は久しぶりに甲子園をテレビ観戦しました。すごい良かったです。おじさんになったからなのか、子と同じ年代の選手が奮闘している姿に喜びを覚えました。あのピッチャー、うちの娘と同学年だよ・・・、とか。同学年には見えないほど心身ともに鍛えられている姿、カッコよかった。わが娘も昨日は模試でしたが、帰りは何やらセーラームーンのグッズを買いにどこかでフラフラしていたようです。セーラームーンですよ、セーラームーン、お仕置きするという。娘、高2なんですよ。プリキュア世代なんだけど、最近また流行っているのか不明です。精神年齢どうなってんのかなあ。

今週は巨人戦のチケットをいただいたのでドームに行きます。今年はロータリーの先輩に2試合もいただいてしまいすごい嬉しい。巨人好きも松井選手がヤンキース行ってから徐々に薄まってきてしまっていたのですが、ここにきてまた復活しそうです。やっぱおっさんはプロ野球観戦しながらビールがよく似合うと思うのです。ところで、チケットをいただいた先輩はご自身でご創業されたIT関連会社の社長さんなのですが、とてもダンディであり茶目っ気もあり人望もあり貫禄あり、しかも話がとてもうまく、尊敬する先輩です。坊さんやってますと、どうしても他業種の方との交流が減りがちなのですが、知り合うことができて良かったと思います。有難うございます。私が思うに、寺の住職、お医者さん、学校の先生、この3つの職業に共通して言えることは閉鎖性、あえて言えば独善性かもしれません。もちろん一般化はできないことなのですが、主観として住職は自分でやっているので常にそう感じますし、お医者さんは兄を見ていると、医者として独善的であるべき側面はあるんでしょうが、まあ医者以外の人の意見はあんま聞かないって印象です。兄だけかもしれませんけどww。それから学校の先生ですが、こちらは以前、私がPTAの会長やっていたときの校長先生がよく仰っていたことで、そうなりがちだから、積極的に異業種の方の講演を聴くように現場の先生にはご指導されているとのことでした。教育委員会の会議におきましても、先生方は問題解決に本当に真摯に向き合っておられるのですが、狭い人的交流のなかで堂々巡りをしているような印象を受けることもあります。おそらく学校での問題は先生方が何とかしないといけないという自負心のあらわれでもあるのでしょうが、少々窮屈に感じることもあります。いずれも業界的に閉じがちであるということもありますが、IT時代になり問題もかつてとは違う方向や新しい要因を持って出てくるなか、旧態依然になりがちな代表選手がこの3業界であるかもしれません。坊さんはちょっと違和感ありますが、皆さん「先生」と呼ばれてしまう職業ですし、同じ「先生」でも士業の方は異業種と関わる仕事も多そうで、この3業種は異業種と積極的に交流しなくとも本質的には成立可能なところが問題なのかもしれません。

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2019年07月26日

今昔 お寺からの眺め

善福寺サイトに新しいページが誕生しました。その名も「今昔 お寺からの眺め」。善福寺近辺から神奈川県西部まで、歴史深い風景をご紹介できればと思います。まずは今月の7月29日(しちふく)にツアーのある南足柄七福寺。他にも順次内容を充実させていきますので、ご覧ください!

http://www.zempukuji.or.jp/konjyaku

善福寺住職 伊東昌彦
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2019年07月22日

自分自身のこととして

この時期は7月盆と8月盆のあいだでご供養もひと休みです。例年わが家ではこの時期もしくは8月盆あとに海に行くのですが、今年は都合がつかず予定がありません。梅雨が長引いていますので良かったかもしれませんが、災害も多くなっているようで自分も気をつけないといけません。

ニュースの報道では悲しい事件事故が頻発しています。ニュースの見方には色々とあるでしょうが、少しでも自分自身のこととして写し見ていくことも大切かと思います。ニュースの世界はまるで向こう側ですが、実は同じこの世の出来事です。でも、なかなかそうは見ることが出来ません。私なんてまるで映画を見るかのようにニュースを眺めているときすらあります。

仏さまの慈悲のなか「慈」とは読んで字のごとく他者を慈しむことですが、「悲」は他者を悲しむということではありません。他者の悲しみというものを、自らにあてはめて同じように悲しむということのようです。今風に言えば悲しみの共有のようなことだと思われます。なかなか私には出来ることではありませんが、少しでも仏さまのあり方に学んでいきたいものです。

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2019年06月30日

絲綢之路を聴いて

私はかつて、そう小学校低学年の頃だったと思います。日本武道館で喜多郎さんのコンサートに連れて行ってもらいました。母と兄と一緒でした。当時、おそらくNHKで『シルクロード』という番組をやっていて、家族で仲良く観ていたと思います。私は幼く、何が何だか良く分かりませんでした。まあ、簡単に言うとあまり面白くなく、父と兄が興味深そうに観ているのを、横で眺めているという様相だったと思います。ブラウン管からは喜太郎さんの「絲綢之路」がテーマ曲として流れていました。コンサートでのことはあまり覚えていませんが、上のほうからステージを眺めると、喜多郎さんが何やら絵描きさんのように見えたことが、今でも印象深く思い起こされます。いい時代でした。この曲を聴くと、なぜか自分がいつかどこかへ還っていく身であるような気がします。

博士論文を書いているとき、よく「絲綢之路」を聴きました。私はいわゆる「課程博士」なので博士課程在学中に論文を提出します。期限があるのです。また、博士課程進学が30歳を超えてからでしたし、すでに善福寺の仕事もしておりましたので、出来るだけ早く書きあげたいという思いもありました。急いで出すものではないのですが、本業として研究者になるイメージではなかったので、本業である住職業務に影響が出ないよう、早めに審査を受けたいという思いがありました。論文執筆ははっきり言ってとても辛く、1日10時間以上も書き続ける日々が続いたと思います。もとより論理的思考に弱く博士論文を出すような頭ではないので、頭は100%以上の出力であったと思われます。そんなときこの「絲綢之路」を聴きますと、2000年以上の仏教の歴史が今、シルクロードを通って自分の手元にまで届いていることがイメージされ、奮起することが出来ました。

また、井上靖さんの小説『敦煌』の映画化である『敦煌』も好きで、これはたしか私が中学2年ぐらいの頃の上映だったと思います。故・中川杏奈さんの姿が中央アジアの雰囲気に合致しており、素晴らしい美しさでした。主演の佐藤浩市さんとの非情な愛の物語も良かったのですが、映画のラストにおいて、佐藤浩市さんが敦煌の地において、まさに無念無想で経典を火事から守り洞窟に運ぶ姿が印象的でした。今、自分の手元にある経典が、どのような経路を辿ってきたのか、本当のところは分かりませんが、おそらくこうした名もなき人々の思いによって、こうして運ばれてきたのだと思うと、「絲綢之路」を聴きながら、思わず涙する自分自身に酔ってしまいそうでした。それがどうも最近、研究から遠ざかってしまい、いけません。

仏教に限らず、どんな宗教でも人為的な営みです。仏教ではそんな人為性を捨てて、宇宙の真理にいたることを示すわけですが、人が人であることをやめることは出来ません。たとえば地球環境を守ろうという運動が盛んですが、人が地球環境を破壊したところで、別に惑星である地球が死ぬわけではないでしょう。人が住めなくなるだけです。人が住めなくても地球は存在し続けます。地球を真っ二つに割るほどの力なんて人にはありません。つまり、こうした一見すると地球にとって良さそうな運動であっても、実のところは人のために人が運動しているに過ぎないという見方も可能です。生きている限りにおいて、人は人であることの束縛から逃れることは出来ないのです。人為的な束縛から逃れることは不可能なのです。しかし実際、人の営みがあるからこそ、私たちは生きている、生かされているのも事実であり、これを否定することに意味はないでしょう。

仏教は真理にいたる道ですが、真理の岸に到達するためには筏が必要です。私たちはたくさん人々からたくさんのの筏をいただき、今日まで生かされてきました。それはもう無数と言ってもいいでしょう。それこそ宇宙の大きな生命の営みの一部なんだと、そう実感してもいいと私は思います。科学を否定的に捉える人もいますが、科学であってもメカニカルであっても生命の進化とも言えるでしょう。映画『スタートレック』ではメカの親分のようになったNASAのボイジャーが還ってきました。これも生命の営みなんだと私は思います。つまり、人為的だと思っているものであっても、人為性なんていうものは仮の存在でしかなく、実はすべてが人為性を超えた宇宙的規模での営みであるとも言えます。筏であったと思っても、実は筏も真理の顕現であり、日常のこと生活のことすべてが真理の顕現であるとも結論可能ではないでしょうか。

華厳教学に「初発心時便成正覚」という言葉があります。覚りを求める心が起きたときにはすでに覚っているのだということなのですが、真理の岸はどこか遠くにあるわけではありません。今ここ、私の人為的な日常や生活こそが覚りの真っ只中なわけであり、単に気づいていなかったというのが実情なようです。「絲綢之路」をテーマ曲にして、シルクロードを通って、たくさんの人々に守られ、経典はようやく私の手元にやって来てくれました。宇宙はこうした縁によって形成されているのであり、それこそが真理なのでしょう。人為的な営みに日々感謝しています。私は出会うためにこの世に生を受けたのでしょう。それこそが真理であり、この世にこうして人として生まれることになった自分自身の業に対しても、深い感謝の思いを持つのでした。ちなみに「絲綢(しちゅう)」とは絹織物のことのようで、日本語としてはあまり使わないかもしれません。

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2019年06月26日

自分という「意識」はどうなるのか

以前、たしか本ブログで死後を予想して書いていた際、今の自分という「意識」が、今まで輪廻転生してきた命のステージの意識になりかわり、あたかも代表するかのようにあればいいなと勝手に妄想しました。しかし、どうやらこれは大間違いであったと、最近は思っています。宇宙を感じればこそ、そんな自分に都合の良いことなんてあるわけないということに気づかされます。自分という「意識」は、本来の「命」へ還元されるはずです。

還元されるわけなので、自分という「意識」が消滅するわけではないでしょう。輪廻転生の一部に還るようなイメージでしょうか。「命」というものは際限がなく、私は宇宙と同じで繰り返しなんだと思っています。そういう意味においては命は宇宙そのものであり、これは『華厳経』の教えなのですが、相即しているというのが実際のところなのではないでしょうか。宇宙に還れば、今感じている苦悩なんていうものは苦悩ではなく、そういう苦悩もひっくるめて宇宙の営みなのです。たぶん

と言うことで、やっぱり自分という「意識」を今のように保持することは出来ないかもしれません。意識がなくなるのは怖いですよね。しかし、仏教的に考えても、そもそも成仏するということは、自分という「意識」がなくなることでもあるのです。「自他平等」ですから、他者と自分の区別のない絶対平等のあり方が仏です。これこそ宇宙に還るということであり、浄土とはそういうあり方の、この世から見たイメージなのかもしれません。阿弥陀如来とは宇宙そのものであり、その人格化なのです。

posted by 伊東昌彦 at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge