2022年08月12日

金太郎まつり

南足柄市の金太郎まつりは花火だけの開催となりました。

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本堂の裏手からも上がります。

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2022年08月06日

神なき知恵は

私はタロウ〜レオ世代ですが、セブンが大好きです。今でもよく見ています。ベル星人が登場する回のラストシーンで、キリヤマ隊長が「神なき知恵は知恵ある悪魔をつくることなり。どんな優れた科学力を持っていても、奴は悪魔でしかないんだ」という言葉を隊員に言い聞かせます。この言葉は玉川学園創始者でもある小原國芳先生のもので、この回の金城哲夫監督は玉川学園出身とのことです。

ここ神奈川西部で生まれた二宮尊徳翁の言葉にも、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」というものがあるそうですが、倫理的に通底していると思います。神と道徳は異なりますが、それらがもたらす倫理観は共通していると私は思います。

ベル星人は宇宙を自由に行き交うかなりの高等生物なので、人の倫理とは異なるかもしれませんが、ベル星人にもベル星人なりの倫理はあったことでしょう。なので隊長の言葉は少々厳しいかと思いますが、ベル星人を抜きにしてその言葉だけに当たってみますと、むやみやたらと科学を使うべきではないという教導を得ることが出来ます。たとえば科学は原子爆弾等も生み出しました。正確に言えば人が科学を使って生み出したわけですので、使用者の倫理が大きく問われることは明白です。

経済にも同じことが言えます。経済はそもそも「経世済民」ですので、単なる拝金主義ではありません。世のため人のためになってはじめて経済であり、人の営みとして意味あることになります。科学も経済も人の営みです。そこに倫理がなければ、キリヤマ隊長の言うように悪魔を生み出すことになりますし、二宮尊徳翁の言うように犯罪を生み出すことにもなります。倫理とは、人と人との間にある真理です。真理は普遍的でなければなりません。しっかりと人のためになっているのか、人のためであっても偏った利益になっていないか、偽善的や恣意的なものになっていないか、日頃からチェックする必要があります。

今日は広島に原爆が投下された日です。今でも世界では戦争が続いていますし、戦争の火種もたくさん存在しています。権力の座にある者こそ、倫理をしっかりと保持してほしい。

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2022年08月04日

『御伝鈔』上巻 第七段「信心諍論」

「源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。」

仏教は古来、仏道と呼称されることが多かったようです。仏教という表現はむしろ新しく、明治時代以降に定着したとも言われます。他にも書道、華道、芸道、剣道、柔道など、道のつく言葉はいくつか見られます。それぞれお師匠さまから長く指導を受け、技術の伝承のみならず、その技術を通して高い精神性を獲得することを目指しています。ただ、お師匠さまに届くのはそう簡単なことではなく、同門と比べて自分の到達度はどうなのか、いろいろと気になるものでしょう。今回のご讃題も引き続き『御伝鈔』からいただきましたが、法然聖人門下においても、仏道修習の到達度について話題になったことがあったようです。

『御伝鈔』によりますと、ある時、法然聖人門下において、思いもよらない言い争いが起きました。信心について親鸞聖人が、ご自身の信心は法然聖人の信心とかわらないと言われたことに対し、ある同門が異議を唱え、親鸞聖人へ詰問したところから始まります。その同門からすれば、お師匠さまの信心とかわらぬとは何事か、なんと生意気なことを言いおって、と腹立たしく思ったことでしょう。信心が自分自身の修練によって得られるのであれば、それもうなづけます。しかし、法然聖人の仏道は本願他力の浄土門ですので、私たちが阿弥陀如来の本願をいただき、たまわりたる信心でお浄土へ参らせていただくものです。自力で信心を獲得するのではありません。

親鸞聖人は詰問に対して、「ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。」と回答されました。他力信心、すなわち阿弥陀如来よりたまわりたる信心であるから、そこに「わたくし」の力量は関係ないと言うことです。だからこそ、「(法然)聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信(=親鸞聖人)が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と続けられました。法然聖人の信心も親鸞聖人の信心もたまわりたる信心です。ひとしく、かわらないのです。

ちょうどその時、同座されていた法然聖人が仰いました。とても温厚なご性格ですので、おそらくその場をうまく取り持たれたことでしょう。「信また各別なり」とのことで、信心にもいろいろあると仰せです。自力の信心もあれば、他力の信心もあるのです。他力の信心とは凡夫が阿弥陀如来からたまわる信心であるからこそ、ご讃題にあるように、お師匠さまである法然聖人(=源空)の信心も、お弟子さまである親鸞聖人(=善信房)の信心も、少しもかわることなくひとつだと教えられました。詰問した同門たちは舌を巻き、口を閉じてしまったということです。

(本文は『やさしい法話』6月号へ寄稿したものです)

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2022年07月23日

【LIVE】善福寺の大銀杏

毎日とても暑いですね。蓮鉢は2日で干上がります。ただ、この時期は落葉がなく、境内清掃は比較的楽であると言えます。お盆に向けての除草作業が大変ですが、落葉がないので負担は減ります。銀杏が気持ちよさそうに風になびいています。朝はほのかな風が気持ちいいですね。

善福寺の大銀杏をライブ配信しています。落葉から黄葉、そして芽吹きの様子が1年を通じて感じられるかと思います。毎日見ているとあまり変化ありませんが、たまに見ていただけますと変化を見て取れるかと思います。

【LIVE】善福寺の大銀杏(神奈川県南足柄市)A large ginkgo tree at Zempukuji Temple in Minamiashigara , Kanagawa , Japan
https://www.youtube.com/watch?v=2YYGp8aV5rQ

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2022年07月16日

日本という国のこと

日本という国を考えたとき、保守的な人もいれば、革新的な人もいるのは当然です。何事においても良い部分は残し、良くないところは変革するものだからです。どちらかにあまりにも拘泥しすぎるのは良くない。仏教では中道と言いまして、極端に走ることは苦しみを増す原因になると説きます。たしかに極端ですと周囲の話を聞かなくなり、落とし穴にはまる可能性は高いでしょう。

私はつねに中道でありたいと思っていますが、性格的には古いものが好きなたちです。古いものの仕組みというか、かつての人々がどう考えてそのように至ったのか、そういう過程を知るのが好きです。たとえば何で神社があるのかとか。何かに対して、おそらくいわゆる自然だとは思うのですが、そこに恐れを懐き、その対策として祀った。為政者はそうした庶民感情を巧みに利用して支配を広げた。そういう過程です。

これは『古事記』や『日本書紀』の誕生においても同じです。為政者のいらんところは切り捨てる。都合のいいところは増幅したり、さらに創作して追加する。こうした過程で誕生したのでしょう。古いものは好きなのですが、それらの存在を絶対視して、その背景を知ろうとしない態度は好きではありません。仏教も同じです。祈祷や現世利益はインド仏教の本流ではありませんが、日本では最初それがうけた。当時の富裕層にとっては、諸行無常とかそういう現状否定的な教えよりも、逆に現状維持のほうが大事だったからです。

日本の伝統を知りたければ、こうした物事の背景まで理解しないといけない。理解した上でああだこうだ言うのは大いに結構なことですが、それを経由しないのは閉鎖的な思考を生む危険があります。実のところ、歴史を振り返れば庶民はこうして支配されてきました。庶民を意味わからんという状態にしたほうが、為政者にとっては都合がいいのは間違いありません。しかし、現代の民主主義ではあり得ない話です。

何が日本の伝統なのかと言えば、とても難しいのです。だいたいよくある伝統というものは、どこかで誰かが都合よくこしらえたものだからです。私は古いものが好きですが、誰かの都合を好きなわけではありません。その都合がどんな内容なのかを知ることは好きですが、その意のままにはなりたくない。歴史を客観的に振り返るという営みがあってこそ、保守と革新はしっかり作用していくのではないかと思えます。そもそもいつから日本になったのか、こういうところから知りたいのです。

posted by 伊東昌彦 at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii