2018年10月18日

住職になるには「覚悟」か?慣れか?

医学部医学科で入試に関しての問題が噴出しています。卒業生の子を優先していることもあったという報道でした。この件につきまして、ある著名なお医者さんの先生が持論を展開されているようです。勝手に要約しますと、「医師家庭の子は医師になるための心構えが出来ている。学科試験に合格したのであれば、面接試験において医師家庭の子を優先しても問題はない」、ということだったかと思います。ここまででしたら、ふ〜ん、なるほどねえという感想程度だったのですが、その先生は何とご出家をされているようなのです。わが宗派と近い宗派とのことで、さらに驚きました。

僧侶資格試験のときに一度不合格となった際、若い子たちが合格するのに、なぜ自分は不合格なのかと担当者へ詰問したところ、寺の子たちは僧侶となる「覚悟」が出来ているから、というような返答であったそうなのです。なるほど、「覚悟」というと大袈裟ですが、たしかに寺院子弟は幼少の頃からお経に慣れ親しんでいる場合も多く、また、住職としての親を見ていれば、僧侶とは何なのか、何を考えて行動しているのか、ということを知る機会も多いことでしょう。そもそも住んでいる場所が寺なので、これはかなり特殊な環境下に置かれてはいますが、特殊な故、それが自然体となって身についていくことは貴重です。

浄土真宗は伝統的に世襲ですが、世襲ではなかった宗派であっても、やはり幼少の頃から小僧さんとして住職の元で寝起きを共にすることが多かったわけで、成長とともに僧侶になっていくのでしょう。これは神道においても同じでしょうし、また、伝統芸能においても同じことが言えるかと思います。親を間近に見て、親を真似て一人前になっていくという側面もあるはずです。ただし、もちろんそうではない場合もあるわけで、これに限ったことではありません。今は世襲の良い面を上げましたが、世襲への甘えからどうしもない奴が育つってことも大いにあり得ます。

世襲だと人材として小粒になりがちなので、要領よくこなすことだけが得意な人材が増殖するかもしれません。知った顔で融通を利かすようなことも増えるでしょうし、進歩せず停滞した仲良しグループになってしまいます。たとえば仏教界でいえば、仏教界が社会から置いてけぼりになりそうであるにも関わらず、それにまったく気づかない閉鎖性を生み出す原因にもなることでしょう。世襲というものは、マニュアル化の難しい特殊性(例:檀家さんとの良好なお付き合い方法)を面授・体得・継承するという点で優れていますが、わがままな甘えん坊を生む土壌にもなっていると思えます。

お医者さんの場合はどうなんでしょう。開業されている先生だと、お寺に近いようなこともあるのかもしれません。また、お医者さんは命を預かることもある仕事ですし、冒頭の先生が仰るように心構えが必要であることは間違いないでしょう。幼い頃から揺るぎない志があるならば、ちょっとのことで挫折することもないでしょうし、とくにお医者さんは一人前になるのに多大な費用がかかると聞きます。心構えは大切なことだと私も思います。ところで急に思い出しましたが、私の中高時代には周囲にお医者さんの息子が多くいました。なんちゃって進学校だったからでしょうか、結構どうしようもない奴もいたような…。すごいお金持ちなんですが、今何してんのかなあ。

坊さんの場合、「覚悟」はどうなんでしょう。そもそも「覚悟」とは「さとり」を意味するので、今はなくて良いのだ、という屁理屈が聞こえてきそうですが、やっぱり住職であるならば、「覚悟」がないと続けていくのは大変だと思います。私なんて、いまだに寺で暮らすということに慣れてません。「覚悟」がないんでしょう。自分でもそう思います。幼稚園ぐらいからお経は習っていましたが、家はお寺ではなかったので、お寺の特殊環境に慣れないのです。おそらく、これはおそらくですが、三人のわが子にとっては、お寺が普通に自然なこととなっていることでしょう。羨ましいなあと思うと同時に、それが故、休日に遠出が出来ないことを申し訳なく思います。ちょっと悲惨。

いずれにしましても、先生の仰ることは理に適っている側面もあろうかと思います。なお、これと入試の問題は別問題ですので、それが正しいのか正しくないのかは私には良く分かりません。

posted by 伊東昌彦 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年10月15日

漠然とした不安によって

40代は精神に異常を来しやすい年代のようですが、とても良く分かる話です。私自身、親に育ててもらい独立し、有難いことに子にも恵まれ頑張ってきたつもりです。しかし、漠然としたことなのですが不安を感じます。順不同で簡単に言えば、仕事の成果が若い頃より出ないこと、今までと同じように家族を養っていけるのか、そして、両親をどう介護していけば良いのか、とても不安です。おそらく多くの方が、漠然とした不安を抱えていらっしゃることでしょう。

幸い坊守の両親は心身ともに健康ですが、私の母は週2回デイサービスに通っています。調子が良いときは犬の散歩に外出しますが、悪いときは記憶も錯綜してしまうほどになります。母と話をした叔母から聞いたことなのですが、ちょうど調子が悪いとき、母は叔母に「今、お薬師さまの隣に引っ越してきたの」と言うらしいのです。「お薬師さま」とは中野の新井薬師のことで、母の実家は新井の隣にある上高田です。今は善福寺の境内に住んでいるわけですが、部屋から善福寺の山門が見えるので、それを「お薬師さま」と勘違いしているようなのです。

一方、父はアル中治療以降、精神的にとても不安定になってしまっており、私もうまくコミュニケーションが取れません。実のところ、私自身も父のアル中治療に付き合うなか、精神的にかなり参ってしまったところがあります。それから父と話をすることが苦痛になってしまい、母のことも、なかばほったらかし状態であったのです。父は母につらく当たることも多かったようで、母の状態が悪くなった要因になってしまいました。気づいたときには軽い認知症になっており、今に至るというわけです。

両親の介護について、知識としては色々と触れる機会もありました。しかし、こうして現実になってきますと、気持ちをうまく軌道に乗せることが出来ません。とくに父とはアル中のことで長年対立してきた経緯もあり、心に引っ掛かったものを取り除くことは至難の業です。心というものは、やはり積み重ねなんだなあと改めて思います。仏教では「業(=自分の行いとその影響)」は蓄積していくもので、それが原因となって次の結果をもたらすとします。自分のしてきたことや考えというものは、一朝一夕で心からなくなるものではなく、いつか何らかの結果を出すため、心にちゃんとしまい込まれてしまっているのです。

私たちが意識している「私」は、仏教的に言えば心の表面に張り付いている膜みたいなものです。対外的には「私」があたかも心の統括者のように顔を出しているのですが、それは心の核から派生した一部に過ぎません。膜である「私」は心をちゃんとコントロールすることなんて出来ないわけです。出来ることと言えば、可能なかぎり心を良い状態と接するようにし、心の自浄作業を促すことぐらいでしょうか。「私」は能動的にいらないものを取り除くことは出来ないので、そう仕向けることに努めることになります。それが仏道修行です。自力だろうが他力だろうが、やってることはどちらも同じです。

家族のことをブログに書くことには批判もあるかもしれません。両親には申し訳ないと思いつつ、坊さんだってこうした不安や悩みを抱えているということ、自責の念を持ちながら書きました。これからどうすれば良いのか、まったくもって不安です。この不安っていう気持ちは、多くの問題行動を引き起こす原因にもなります。不安は恐れを生みますし、恐れによって人は意固地になりがちです。意固地になりますと他者とのコミュニケーションがうまく取れなくなることもあるでしょう。不安とは安心ではないということで、とても居心地の悪い感覚ですよね。

posted by 伊東昌彦 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2018年10月05日

善福寺能のお知らせ

今年も善福寺能の季節となりました。10月27日(土)午後5時30分より、善福寺本堂におきまして開催いたします。一般の方はお一人様3000円となりますので、お電話でご予約のうえ、当日お納め下さい。

≪ 経 正 ≫
平家の公達経正は一の谷の合戦で、弟の敦盛を庇って逃げ遅れ、自刃して果てる。経正が幼時を過ごした仁和寺ではこれを悼んで、嘗て経正に預け賜って置かれた名器青山の琵琶を仏前に手向け、管弦講(音楽葬)で供養する。深夜、経正の幽霊が幻のように現れ、弔いを喜んで手向けの琵琶を弾き、しばしの夜遊を楽しむが、戦死者の宿命として修羅の苦患を受ける姿を恥じて灯火に飛び入って消え失せる。

開催要項
img195.pdf
posted by 伊東昌彦 at 14:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2018年09月29日

再読!『仏典はどう漢訳されたのか』

坊さんもトレーニングが必要です。少なくとも私は最近そう思います。なぜかと言いますと、とにかく憶えたことを忘れてしまうのです。私の場合は学問になりますが、大人になってから憶えたことの持続力がありません。あの言葉どこの出典だったかなあ、あの坊さん、いつの時代で名前どんな字だったかなあと。結構見事に忘れるのです。お経の読み方は幼少の頃から体得したので忘れないとは思うのですが、大人になってからの知識はダメです。

それからこれは実生活のことですが、知り合いの名前が出てこないのです。ああ、ほれ、あの人だよ、あの人っ!!、という具合に坊守に話すことしばしばです。ちょっとマズいんじゃないかと思うほど、記憶力が減退しています。まあ、知識なんてのは忘れてしまってちょうどいいとも言えるのですが、まだ憶えていたい。法話会でも困るんですよ。私の法話は知識ネタが多いので、忘れてしまうとカッコ悪いんですな、これがまた。ああ、何だったっけ、あの人、忘れちゃったけど、そういう坊さんがいたんですよ、とかそんな風になってしまう。

今は中国の坊さんの名前を忘れてしまっており、再度、船山徹先生の『仏典はどう漢訳されたのか』(岩波書店、2013年)を読み直しています。経典翻訳の事情って面白いんですよ。経典は本来は漢文じゃなかったわけで、インドのサンスクリット語とか色々混じった言語とか、そんなのが使われていました。それをインド人の坊さんと、中国人の坊さん、なかには坊さんじゃない人も参加して、一生懸命翻訳して下さったのです。現代よりも言語間の情報ないですし、もの凄く大変な作業だったと思います。ちょっと専門的で難しい言葉も出てきますが、宗派の教学ではあまり出てこないような裏話的な内容もありますので、とてもお勧めな一書です。

posted by 伊東昌彦 at 14:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年09月21日

戦闘指揮における倫理?

AIの軍事利用について国際的な議論が始まっているようです。その報道に触れまして気になったコメントがありました。戦闘指揮をAIにさせるのは倫理的に良くないとの内容でしたが、単純に人ならいいのかと思ってしまいました。敢えて言いますが、戦闘指揮はAIのほうが優れているのではないかと思います。しかし、もちろんそんなことを議論しているのではなく、AIには戦闘中において倫理面における攻撃の要・不要の判断が出来ないだろ、ということなんだと思います。

戦争映画を見ていますと、人対人なので当たり前ですが、倫理面での描写が戦争の残酷さを和らげ、観るものに感動を与えるヒューマンドラマとして仕立てられていることが多いと感じます。実際、戦場には映画になりそうな話がないわけではないでしょう。しかし、本質はあくまでも相手への攻撃、つまり、大義としては個人攻撃ではなく国家への攻撃ではあっても、現場では殺人の正当化に他ならないわけです。そもそも、倫理なんてそこにあるのでしょうか。

戦争に倫理がないというのは言い過ぎで、多くの軍属が「早く家に帰りたい」と思っているのであれば、やはりそこには人々がともに生きるための規範たる倫理が存在すると言っても良いでしょう。ただ坊さんとしては、倫理という言葉を使うのであれば戦争をしないのが最も倫理的と言えるんじゃなかろうかと、そう思うわけです。どうも戦争を肯定するために、もしくは肯定と同時に倫理という言葉を白々しく使っているように見えて、非常に居心地の悪い感触でした。

posted by 伊東昌彦 at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii