2023年11月29日

おとぎ話の当地を大切にしてね

前提として、これ人種や肌色に差別をする意図まるでないのですが、ディズニー映画の『リトルマーメイド』(実写版、2023年)では、主人公である人魚姫・アリエルを、ハリー・ベイリーさんが演ぜられました。ハリー・ベイリーさんは、おそらくアフリカ系アメリカ人だと思います。いわゆる黒人女性です。長い髪がとてもよく似合うキュートな若手です。

私が個人的に持っていた今までのアリエルのイメージは、白人女性がモデルになっています。絵本でもそうですし、そもそもディズニーアニメの『リトルマーメイド』(アニメ版、1989年)においても、真っ白ではないですがアリエルはどう見ても白人女性系でした。

アニメ版のアリエルが白人女性がモデルになっていた理由は簡単で、ディズニーのアニメ版『リトルマーメイド』はデンマークの童話作家・アンデルセンによる「おとぎ話」である『人形姫』が原作だからです。昔からのデンマーク人は白人だと思いますし、そういうデンマーク人からすれば、アリエルは白人女性というイメージでしょう。実は、実写版『リトルマーメイド』も『人魚姫』が原作です。

繰り返しますが、ここで人種や肌色についての差別を語るつもりは一切ありません。

私が言いたいことは次のようなことです。

ディズニーの『リトルマーメイド』がデンマークの「おとぎ話」を原作としているのであれば、それはたとえば日本の「おとぎ話」である『竹取物語』を原作とする実写映画をディズニーが制作したとして、かぐや姫がいきなり白人や黒人になっていたら日本人はビックリするのと同じように、デンマーク人も黒人女性系のアリエルを観てビックリしただろうなあ、ということです。

かぐや姫は宇宙人かもしれないので、そりゃまあ白人や黒人でもいいかもしれんのですが、多くの日本人は昔からの日本人的な女性をイメージしているでしょう。『人魚姫』は世界中に広がった名作ですが、デンマーク人にとっては特別な思いもあるかもしれません。『竹取物語』は世界中に広がってはいないと思いますが、同じく日本人にとっては特別な思いがあるのは間違いないとは思います。

アメリカ映画なのでデンマーク人とは言わずとも、アリエルは北欧の女優さんに演じてもらうとか、そういう姿勢であったほうが、「おとぎ話」の当地への尊敬の念が見られて個人的には嬉しく思います。ハリー・ベイリーさんも良い演技をされたと思いますが、ディズニーという会社の考えとして、「おとぎ話」の持つ魅力を大切にしてもらいたいと思っています。

かつて、『リトルブッダ』(1993年)という実写映画がありまして、お釈迦様の役をキアヌ・リーヴスさんが演ぜられました。キアヌ・リーヴスさんのお母さんは中国系の方です。お釈迦様のお顔は、実際のところ彫の深いアーリア人系なのか、それともサッパリなお顔であったのは不明ですが、お母さんが中国系であるキアヌ・リーヴスさんの顔立ちは、個人的に違和感がなく、古典や宗教への配慮が見られて嬉しかった。

アフリカの「おとぎ話」もたくさんあると思いますし、ディズニーはそういう各地の「おとぎ話」を、可能なかぎり当地のものとして再現した形式で伝えてもらいたいなあ。それこそ世界を知ることになって、相互理解が深まり、世界がつながっていくことになるように思うんだが。

イッツ・ア・スモールワールドですよ


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2023年11月27日

掲示伝道をはじめました

掲示伝道をはじめました。毎月更新の予定です。頑張ります!

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2023年11月06日

死とは、何なのか

#仏教 #死 #阿頼耶識

死ぬということは、仏教ではどういう意味なのでしょうか?

1つの考え方です。

仏教では心こそが人の本体と見なしますが、心は多層構造であると考えます。自分自身である「私」という認識は、心の一部である「意識」が身体を通して認識しています。「意識」は知性です。身体の脳が大きな役割を果たしています。他者への認識も同じです。他者と交信する際にも身体を通じて直接行われ、「意識」が誰々と認識をします。

そして「意識」より深い層には、普段の自分では知り得ることのできない部分があります。深い瞑想によって知り得ることが可能とされ、これを「阿頼耶識(あらやしき)」などと言い表します。簡単に言えば、過去いく世にも重ねてきた自分の行為やその影響が貯蔵されており、言うなればデータ貯蔵庫です。前世のみならず、無限の過去世からのデータです。

この「阿頼耶識」は、この世において「意識」や身体と同じように刻一刻と変化していますが、身体の「死」によって「意識」も継続不能になる一方、「阿頼耶識」は継続します。そういう意味ではこの「阿頼耶識」が人の本体であるように思えてきますが、実際にはただの入れものにしか過ぎません。本体というと不変な存在をイメージしがちですが、仏教ではそういう本体はないとされます。

なので敢えて言えば、ここに貯蔵されている自分の行為やその影響、これを「業(ごう)」と言いますが、この「業」こそが本体ということにもなるかもしれませんが、これはやはり現代的なデータのような存在なので本体と言えるかどうかは微妙です。しかしいずれにしても、「業」によって自分自身は次から次へと転生しますので、私たちは不滅であるとも言えるわけです。

じゃあ死ぬってのは、いったい何なんだと言いますと、すでに述べてしまいましたが、この世で身体が継続不能になることです。脳も含めて身体が継続不能になれば、この世での「意識(つまり「今の私」)」も消滅します。しかし、「阿頼耶識」は継続します。自分の「業」は大量に残っているので、それに基づいた来世がスタートします。転生です。新たに身体を得て、新しい「意識」も出てきます。記憶は継続しませんが、「業」はしっかり貯蔵されています。こういう意味で不滅なのです。

上記を言い換えますと、普段の「意識」レベルで自分や相手を認識出来なくなった状態が「死」です。「阿頼耶識」は普通は知り得ませんので、私たちは相手の手がかりをなくしてしまうことになります。交信不能に陥るというわけです。私は両親を亡くしましたので、両親とは生前のような交信は不可能になっています。しかし、両親はとくにどこにも行っていません。私の「阿頼耶識」と両親の「阿頼耶識」は、今でも関係性を持っているはずです。「意識」レベルでは分からないだけです。

ただ、仏教(大乗仏教)では成仏することが目的なので、成仏すると「阿頼耶識」は仏の智慧に取って代わります。業も消滅し、自他平等のさとりの境地に至ります。これが果たしてどういう状態なのか、色々と経論には説かれています。「業」によって輪廻転生を繰り替える私たちを、その「業」の鎖から解き放ってくれるはたらきとなるのでしょう。両親が成仏していれば、両親の「阿頼耶識」は仏の智慧になっており、智慧は私を救ってくださるはたらきです。やはり、私と両親は関係性を持っています。

死ぬということは交信不能なだけであり、仏教的にはとくに別離ではないと言えそうですね。私たちがいかに身体に頼って生きているのかが良く分かります。

とは言え、大事な方が亡くなることは耐え難い辛苦です。交信できないのであれば、事実上の別離ではあります。これを仏教では「愛別離苦」と言い表しますが、交信不能であっても語り掛けること、古来、人は語り掛けることによって「愛別離苦」を受け止めて来ました。写真に語っても、手紙に語っても、本堂やお墓で語っても、何でも良いのだと思います。「死」を経てなお語ること、無意味だとは思えません。


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2023年10月18日

日本人に人種差別あるのか

日本人に人種差別あるのかと言えば、これはもちろん主観ですが、「人種」だけでの差別は多くはないと思えます(ないとは言いませんが)。

しかし、差別はある。

いわゆる日本人、抽象的ですが一般的な日本人にとって、「違う」と思うことは「日本人的感覚」に基づいているように思えます。「日本人的常識」でもいい。これを判断基準として、違和感を覚えなければ人種が何だろうと、どこの国の人だろうと、あまり差別はないでしょう(ないとは言いませんが)。

ただし、このフワっとした「日本人的感覚」や「日本人的常識」っていうのは、とても難しい。

この島国で、その伝統を重んじ、大和政権以来、実は政治の枠組みに大きな変化のない日本。江戸時代からの滅私奉公の感覚が仕事場でも息づいている。日本古来の神祇信仰から、先祖崇拝、仏教伝来、神仏習合、キリスト教伝来、色々な宗教が混じり合って熟成された宗教観。他者との関わり方も、ここで育たなければ、なかなか真似のできるものではないでしょう。

ここから発した「感覚」や「常識」から外れると、ダメなんですよね。そこに「人種」は関係なく、同じ日本人でもダメだったりするから、これまた厄介。しかも場によって、地域や学校や会社といった場によって、それぞれ異なる側面を見せることもあるので、それに乗れるか乗れないかという難しい局面がある。フワフワなので難しい。

肌の色が何だろうが、一般的な日本人にとって大事なのはここなんだと思います。

ここから外れると、差別されます。いじめですよ。明瞭ではなく、陰湿な傾向です。

一般的な日本人にとって、個性や個人、プライベートって、やはり欧米の感覚であって、いまだに良く分かってないところもあると思えます。私もそうです。理解しようとしても、心の奥底から、どこかから湧いてくる違和感を禁じ得ない。とは言え、それが間違っているわけではないので、それが差別につながってしまうことのないよう努めることが大切だと思っています。「日本人的感覚」や「日本人的常識」が悪いのではなく、それを差別につなげてしまう短絡的な思考が悪いのです。

日本人は曖昧な感覚を好みますので、実際にはかなり寛容的です。宗教を見ても、1つを選ぶことはしないでしょう。差別を生まないような思考が出来るはずなので、気をつけていきたいと思います。

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2023年10月17日

報恩講 お能 医療講座

≪報恩講のご案内≫

◎逮夜法要11月18日(土)
 ・午後4時〜読経と法話 当山住職
 ・午後5時〜能楽奉納 鎌倉能舞台 中森貫太師 
   半能「熊坂」

◎日中法要11月19日(日)
 ・午後1時〜雅楽法要
 ・法要に引き続きリコーダー演奏 
   小田原リコーダーコンソート
 ・午後2時〜医療講座 
   茅場町いとう医院副院長 伊東佳子先生
    講座「肝臓について」

本年の能楽奉納は半能「熊坂」です。医療講座はお馴染みの伊東先生による「肝臓について」となります。リコーダー演奏もありますので、皆様どうぞお参りください。法要に参加して心を健康に、そして医療講座で体も健康に。自分にとって充実した毎日を過ごしましょう。 合掌

 お能「熊坂」
「都から東国へ下る途中、赤坂にさしかかった旅僧(ワキ)が一人の僧(前シテ)に呼びかけられ、さる者の命日の回向を乞われ、僧の庵室に導かれる。そこには仏像がなく、おびただしい武具がある。シテの僧は、それを横行する山賊に備えてのためという。ついで仏も武器によって悪魔降伏をする事を語り、寝所へ去る。中入で、赤坂の里人(アイ)が熊坂長範の事跡を語る。旅僧が弔っていると、長範の霊(後シテ)が夜風激しい中に現われ、黄金商人三条吉次信高を襲ったときの有様を再現し、当夜、眼光炯々として見張っていた十六、七の小男が牛若だと知らなかったのが運の尽きであったと語る。キリは長刀を使う熊坂が牛若丸に翻弄されるさまを見せる。長刀物で爽快な所作を見せる上、夢幻能としての詩情も溢れる名品。」(『能楽ハンドブック改訂版』、三省堂2000年)

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2023年10月14日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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少欲知足を心がけたい

戦争や紛争などの争いを始めるのは権力者です。そういう権力者ってのは、なんて欲深いのかと思う。あれも欲しい、これも欲しいなんだろうな。争いの原因は欲望だ。子どもの喧嘩だって、物の取り合いが多いだろう。欲があるから人は生きているわけだが、欲は少なくても実は大丈夫。

少欲知足

posted by 伊東昌彦 at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge