2019年06月22日

シャアのセリフ

皆様、『逆襲のシャア』という映画をご存知でしょうか。ガンダム映画なのですが、本来は敵役であったシャアという人物がタイトルになっています。そのシャアがラストシーンに近いところで、本来の主人公であるアムロに向ってこう言います、「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」と。ララァはアムロによって、アムロにとっては不本意ながら撃墜され亡くなっています。シャアはそんなララァに、自分の母親になって欲しかったようなのです。当時、やたらマザコンなやつだと思ったものです。

しかし今、ああ、こういうこともあるのかあと、30年以上たって感じています。


最近、やや参ってます。両親がともに病気になり、とくに母親は命に関わる重篤なようです。父は心の病気です。ただ私は大人になってから両親とはあまり反りが合わず、ここ数年に至ってはほとんど会話をしていません。近くに住んでいるのですが、こんなあり様だったのです。両親には感謝をしておりますが、色々とゴタゴタありましてなかば喧嘩状態、と言いますか、精神的にはもう絶縁状態に近かったのです。成人してからというもの、両親に振り回される日々でした。

両親は東京で私を生み育ててくれました。普通のサラリーマン家庭でした。中高時代は反抗期でしたが、よく理解をしてくれて誇れる両親でした。しかし大学生も半ばのころから、父は会社で左遷されたような状況になり、そのまま退職を待たずにアルコール依存症になりました。退職後はお寺に移住しまして、酒浸りのなか仏事を営んでいました。私との住職交代でもひと悶着あり、今でも父は周囲に私への不満をぶちまけているようです。依存症で住職を続けさせることは出来ず、お寺のことを考えて私が継職をしたわけです。

依存症の治療でも私は尽力したつもりですが、お酒をやめたあと、父は心の病になってしまったようです。母を罵ることも多く、最近では虐待のようなことに発展していたように見て取れます。母は不満を私にぶつけて来ましたが、いつの間にか認知症になってしまい、別の病気を発症して今に至ります。ここ数年はあまり交流もなかったことから、母が重篤であるという知らせを受けても、私自身、心の動揺はほとんどありませんでした。幼い頃は母親っ子で、学生時代も母を頼りにしていましたが、私の心もどうかしてしまったかのようです。

奇妙な感覚なのですが、私の両親はまだ東京の実家にいるような気がします。そこに帰れば普通に出迎えてくれそうな気がするのです。ただし、もう家はなくなっているので、やはり両親は東京で亡くなったんだとも思えてきます。じゃあ近所にいる今の両親は何なのかと言いますと、よく分かりません。不遜ながら偽物かとも思ってしまうほどです。なんだか相当いかれてしまったのかとも思うのですが、正直に書けばこんな感じです。堂々と発表するようなことでもないのですが、こういう状況もあるんだと言うことです。

母という存在が欠けることは辛いことです。私、母親っ子ですからね。

ここ数年は母を欠いていたような状況で、今、母が実際に重篤に陥り、それが実感できました。母がいるんだけどいないというような、気妙な感覚のなか過ごしてきたのです。私は家族に対してとても自分勝手なところがあり、こうあって欲しいという自分の思いを押しつけがちです。だからでしょうか、立派であった父がアルコール依存症になって堕ちていくのを目の当たりにするのは、とても辛い日々でした。それに伴い、慈悲深かった母も愚痴の塊のようになり、私はかなり困惑しました。

両親とはこうあって欲しいという、私の身勝手さが自分自身を苦しめています。両親だっていつも立派であるわけもなく、子だからと言ってそれを許せないというのは、あまりにも一方的すぎます。何事も自分自身に原因があります。相手が悪いのではなく、自分自身の心が相手をそう思い、勝手に苦しんでいるのが私たちの実際です。私もこうなっている両親を受け入れなければなりません。しかし、これはとても難しいことです。自分の心は自分の心であっても、うまく制御できません。仏教の修行は心の制御でもあるのです。

やはり、あまり自信が持てません。私は基本的に自信過剰なほうですが、今回ばかりは参りました。母になってくれるような存在がいないと、やはりダメなのかもしれません。とは言いましても、こんな私につき合ってくれそうな人はいないでしょう。仮にいたとしても、その人にはその人の人生があるわけですし、やはり無茶苦茶な話です。こういうところからも、自分自身の身勝手さを思い知らされます。心が弱っているときほど、人は身勝手になってしまうのかもしれません。なぜでしょう。

シャアは幼いころ両親を謀略によって亡くしており、その怨みを晴らすために生きてきた人物です。しかもエースパイロットであり、政治的にもかなりの力を持っています。自分の思い通りになることも多かったと思われます。私とは随分と尺が違うわけですが、そんなシャアでも母という存在は特別なものであったのでしょう。ガンダムではシャアの苦悩というものが描かれますが、結構勝手なところがある人物です。反対に主人公のアムロには母がいます。シャアが独善的なのは、母という存在の欠落が影響しているのでしょうか。

心の弱さとは何でしょう。逆に強さとは何なのでしょうか。最近の課題です。

posted by 伊東昌彦 at 12:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2019年06月07日

教育虐待という言葉に触れて

最近よく見かけて気になる言葉に「教育虐待」というものがあります。これは教育を受けさせない虐待ではないようです。むしろ教育の名のもと過度に子へ勉強を強制することにおいて発生する虐待であり、具体的には成績下降時の過度の叱責や制裁が当たります。成績落ちたら叱られる、成績落ちたからおもちゃ没収される。昔からよくあるシーンだと思いますが、やり過ぎなんです。

これは私の印象ですが、教育虐待というのは中学受験前後に関係することが多いように思います。今や中学受験準備は小学校に上がる直前から始まるという、何とも言葉にならないような驚きを禁じ得ません。本ブログでも数回書いたように思いますが、わが家では子そして私自身も中学受験に挑みました。その経験から申し上げますと、たしかに中学受験というものは「虐待性」を孕んでいると言えそうです。

中学受験は親が関与しながらも受験勉強の主体は親ではなく子だけになり、親がいくら立派であっても子が振るわなければうまく行きません。いわゆるお受験である小学校受験、そしてこれらとはやや性格の異なる高校受験においても虐待性は認められるとは思いますが、前者は親自身も受験対象となることもあるようですし、後者に至っては一部で中学受験化していることもあるとはいえ、一般的には親の関与は大きくありません。

このように中学受験は親の関与が高いと同時に、いかに子に勉強をさせ成績を上げるのかということが重大案件になりますので、結果的に過度の勉強をさせることにつながっていくことは容易に想像が出来るわけです。私自身もその落とし穴にはまりそうになったこともあり、今でも上の子に咎められることがあります。私自身は受験とは相性が悪いというか、努力をしないのがダメなんでしょうが、うまい結果ではありませんでした。子には自分よりも難易度が高い学校へ合格してほしいという一心、つまり自分の失敗経験の名誉回復を子に託すという無茶苦茶なことをしそうになったわけです。

幸い途中で気がついたので過干渉はやめたのですが、それでも上の子には辛い思いをさせたかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになります。とは言いましても、中学受験の骨格形成を担うことの多い進学塾は、塾生の成績向上による難関校合格こそが業績を左右することになるので、そんな家庭の事情なんてお構いなしに過度のカリキュラムを半ば強制的に提供してきます。

私は今、進学塾に対してやや批判的に書いてしまっていますが、実は勉強をたくさんしたからと言って難関校に合格できるわけではないという現実は、進学塾こそよく知っているはずです。努力を継続するということも含め、勉強にも先天性の要素がかなり影響します。もちろん子はまだ発達段階ですので、これから伸びていく子もたくさんいることでしょう。

小学校6年生において、今のその子にとって、学力のほか性格なども含めて適した学校に入学させることこそ、親が本来すべきことなのです。偏差値の高いより難関な学校に押し込むことではありません。一方、塾はその反対で、偏差値の高いより難関な学校へ塾生を合格させることこそ、彼らの本業です。親と塾では目的が一部重なりながらも、見るべき到達点は異なるということになるので注意が必要なわけです。塾は塾として至極当然のことをしています。

成績が親の思い通りにならなくても、それも含めて自分の子です。そしてそれと同時に、子は自分とは人格が異なる存在です。子は子の人生を歩んでいます。親とは違って当然。教育虐待が原因の1つとなって事件が起きることがあります。とても悲しいことですが、ねじ曲がった親心なんて子には不要であり、私もそうなるところであったと猛省をしています。

親子であっても、それぞれがそれぞれの命において生きています。親子は縁が深くつながりも深いわけですが、そうではあっても別々なのです。個々が独立しつつも縁によって結び支え合っているというイメージが仏教的な命の見方です。子は親の所有物でもなんでもありません。親が立派だからと言って親のように立派になならなきゃいけないわけもなく、親がいまいちだからと言って親より立派にならなきゃいけないわけでもありません。

私は基本的には中学受験には賛成です。10歳前後で脳を鍛えることはその後の発達にも好影響を与えると思っているからです。また、10歳前後になると個性がより確立され、皆が同じような学校で大丈夫ということにはならなくなってきます。真ん中の子は地元小学校ではやや浮いたろところがあり心配でありましたが、今、そういう浮いてる子がたくさんいそうな学校に通っており、自分より浮きまくっているような仲間に出会えて楽しそうです。

親子であっても自分勝手な「思い」の押しつけは迷惑な話ですよね。

posted by 伊東昌彦 at 10:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2019年05月19日

不断煩悩得涅槃

「煩悩」って聞きますと、かなりのマイナスイメージ。除夜の鐘ついて祓うっていう、アレでしょ。よこしまな心だと思うし、浮気とかそういう浮っついた話の。それから人を妬んだりとか、まあ、ないほうが良さそうな部分。でも、煩悩がないとどうなってしまうんでしょう。仏さまって感じ?

「涅槃」というのはその煩悩が消し飛んだ状況のことで、大乗仏教でもひとまず到達すべきと言われます。しかしこの煩悩ってのは、本当に厄介な存在。もの凄い修行積まないと消えない。煩悩の元と言うか、煩悩を発生させる原因は業なんだけど、この業は前世やもっと前からのお土産みたいなもので、たくさん自分は持ってる。でも意識的に捨てることはとても難しい。腐れ縁なんです。

仏教は煩悩との対峙でもあるんだけど、これがまた自分自身の所有だから厄介なんです。悪魔とかそういうのが他にいるんじゃない。他でもない自分そのもの。だから捨て難い。いえ、捨てたくないと言ったほうが正解かもしれません。楽しいことって、意外と煩悩まみれなこと多いでしょ。私だったら、たとえば好みの女性とデートしたいとか。これ結婚していようがいまいが、まったく関係ない。愛欲は煩悩なんですな。

これ悩んだ坊さん多いらしいです。だからお釈迦様は男子寮と女子寮に分けたんだと思う。近くにいると互いにムラムラするから。ムラムラしない人もいるだろうけど、私だったらムラムラしますね。もう絶望的。涅槃なんて無理。もう辞めようかなって。お釈迦様に辞表とか。

芸術だって煩悩を表現したんじゃないかってもの多い。スポーツだって他者との競い合い。食事もそう。おいしいもの食べたい〜。今日は焼肉にしよう!とか。すごい煩悩。私、最近思ったんですが、中3ぐらいからバンドやってて、たしかにロック大好きだった。でも、同時に女性にもてたいという思いも、まさに一心だった。あんまラブソング好きじゃないけど、でもそういうのあったなあって。

人間ってのは営みそのものが煩悩だと言えるので、それなくなったらつまらないのは確かでしょう。少なくとも人間的な面白味はなくなる。生きていること、それ自体も大きく煩悩を含む事柄だから、そりゃ煩悩を断てって言われてもホイホイできないわけですよ。仏教が2500年近く続くわけだあ。実はあんまり解決していないという、なんともシュールなこの現実。

だからと言って煩悩のまま生きたら、絶対に滅茶苦茶になります。

仏さまは煩悩を断じておられる。だからこそ、自分へのこだわりなく、すべて平等にどのような存在にも慈悲を注がれる。私たちも本来、そうあるべきです。しかし、現実には難しい。そんな自分を知ること、自分の本心、つまり煩悩におおわれた部分に向き合うことこそ、まずは必要かと思います。私は戒律を受けない浄土真宗の坊さんですが、戒律の戒はとても好きです。律は出家修行者用の罰則規定ありのルールなんですが、戒は仏教徒であれば誰しも持つものです。これには罰則規定はない。戒めなんです。自分自身への戒め。

戒めを持つ生き方ってのが、本当の意味での宗教的生き方かなと思います。

posted by 伊東昌彦 at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 良質な煩悩ライフ-life

2019年05月01日

令和を迎えまして

令和元年になりましたね。今朝お経をあげまして、静かな1日の始まりでした。目の前の松田山や大磯丘陵を眺めましても、あたりまえですが何事もなかったかのよう。自然にとっては太陽が昇り沈む1日、そして季節がめぐる1年は大事であっても、元号はどうでもいい話ですよね。しかし、元号に慣れ親しんでいる日本人からしますと、なんとなく新たな気分になるような気もするかもしれません。元号の歴史については詳しく知りませんが、そもそもは暦を支配するということからはじまり、吉祥を願っての使用であったと思われます。そういう意味においては、現代では前者は機能停止していると言え、後者のみが情緒的に機能していると言えるでしょうか。

私はあまり合理的な思考の人ではないのか、情緒的ではあっても元号にはそれなりに居心地の良いものを感じます。実際のところ、西暦との併用が一般的ではありますので、元号はなくても問題ないという意見もあるかもしれません。ただ、西暦はあくまでもキリスト教の信仰を基準とした暦ですし、普遍的とは言えないものです。だからと言って、いつから人が人としてのスタートを切ったのかは分からないわけですし、人文的に決めざるを得ないのもたしかです。天皇が象徴であるのであれば、それに直接連関する元号も象徴ということになるわけですが、未来を思い描きこうありたいという国民の願いの象徴とするならば、それを漢字二文字で表現するのはなかなか文学的に趣きが深いと感じます。

posted by 伊東昌彦 at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2019年04月30日

鼻毛は伸びる、耳毛も伸びる

門徒さんとお話をしておりまして、東京に出るとどうも鼻毛が伸びるとのことでした。理由を聞きましたら、田舎住まいでたまに都会にいくと排気ガスに反応するからと。半分冗談のお話でしたが、なるほどたしかにそれはあるかも。都会住まいの方々の鼻毛が伸びているということではなく、違う環境に行くと身体的防御作用が働くということでしょう。あり得る話かもしれませんね。

私も鼻毛はよく伸びるほうなのですが、最近は耳毛。耳たぶではなく、入口あたりから数本ひょいひょいと伸びてくるんですよ。ご高齢の方でもいらっしゃいますよね、かなりロングな方。若い頃は生えないものなのでしょうか。良く分かりませんが、いずれにしても最近耳毛なのです。耳毛は何で伸びるのかなあ。上記鼻毛の理論から言いますと、排気ガスのような有害物質が耳に入ってこないため?!

耳は鼻と違って空気を吸い込む機能はありませんので、入ってくるものと言えば音です。有害な音を耳毛がかき消すということなのか。ボウボウになると遮音性高まるのでしょうか。しかし、どのように有害無害を判定するのか、とても不思議です。毛にそんな人文的なことが出来るとは思えないのですが・・・。むしろ逆に遮音性が高まると危険ですよね。

耳毛が生える理由はおそらく別のところなのでしょう。年を重ねたら周囲の音や声が聞こえなくなるようでは困ります。耳自体の機能も低下するでしょうし、むしろ聞こえたほうがいい。また、年を重ねて経験を積みますと、どうも自己中心的になりがちなのも私たちです。自分のやり方が固まってくるからでしょう。頑固になってしまう傾向はありますよね。であれば、むしろ耳毛は綺麗にカットしておいたほうが良さそうです。

周囲の声に耳を傾けることは、いつになっても大事なことだと思います。経験を積んではいても、それはあくまもで自分自身という狭い経験でしかなく、あまり頼りになるとは言い難いこともあるでしょう。年を取ればなおさら、家族の声にちゃんと耳を傾けるようでありたいと思うのです。たとえば車の運転もそうですよね。私は車が好きなので、ハンドルを手放すことが出来るか不安です。でも、耳を傾けていきたいと思っています。

posted by 伊東昌彦 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii