2016年09月24日

箱根ジオパーク編入決定!

南足柄市の箱根ジオパークへの編入が決定されました。
http://www.hakone-geopark.jp/

箱根仙石原への道も開通するようですし、箱根の玄関口になれるかもしれません。そもそも南足柄市は、その市域のほとんどが箱根外輪山の明神ヶ岳です。もう少し箱根を意識しても良いかと思います。

posted by 伊東昌彦 at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2016年09月15日

本質こそ大事にしたい

仏教では宇宙そのものを「生住異滅(しょう・じゅう・い・めつ)」の四相で捉えることがあります。「生じて」、「持続して(住)」、「変化して(異)」、「滅して」いくわけで、これを繰り返しているのが宇宙だと言うのです。仏教では宇宙の始まりを明確にはしませんので、この繰り返しこそが宇宙になります。「過程の連続」ということなのでしょう。

私ども人間は、いつの時代も人間中心のものの見方から脱することが出来ません。自分の思考を冷静に見つめてみましても、やはりどこかで人間中心です。成長してきた生活環境自体がそうであるので、もちろんこれが直ちに悪いということにはならないのですが、それが故、本質を見誤ることもあるのでしょう。

では本質とは何でしょう?

仏教で説くところによりますと、それはまず人間中心ではないということです。たとえば地球環境問題を取り上げましても、「地球環境に悪い」という思考は、実際には「人間にとって悪い」ということになります。もちろん、他の生物にとっても「悪い」ことにつながるのですが、人間が消滅しましても、おそらく地球自体は存在していることでしょう。そして、長い年月をかけて自浄作用を施していくと思います。

また、人間は決して「万物の霊長」ではなく、「生住異滅」の考え方によるならば、人間という存在も「過程」に過ぎないことになります。今、AIと言われる人工知能についての報道が見られますが、人間に取って代わりまして、AIが地球上で人間のような存在になるかもしれません。AIは人間が生み出したものですし、人間から「進化」したとも言えそうです。そしてAIもいつかは滅ぶでしょう。それも宇宙の「生住異滅」の過程です。

地球環境について言うならば、直接的に「人間の存在にとって悪い」と言ったほうが本質的です。しかし、それだと人間中心だという批判を受けるため、わざわざ「地球環境に悪い」という表現をするのでしょう。自分たちの思考をしっかりと知るならば、環境問題に地球は「無関係」だと言ってしまっても良いかもしれません。もちろん地球を大事にすることは尊いことですが、環境問題の視点は別のところにあるでしょう。

こうしたスケールの大きなことのみならず、普段の生活の中でも本質を見えないようにしていることは多々あります。たとえば、私たちは毎日食事をいただきます。食事には多くの命が含まれています。動物だけではありません、植物だって生きているのです。種だけいただいているわけではないでしょう。お肉はパックになって突如出現するわけではありません。ちゃんと生きていたのです。それをいただいている。命というものは、他者の命があって初めて存在し得るものなのです。これが本質です。

人間中心に思考していますと、何でも都合よくなってしまいますよね。私だってそうです。自己中なのです。

posted by 伊東昌彦 at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2016年08月28日

繰り返し聞かされること

少年事件が後を絶ちません。もちろん昔もありました。私が高校生の頃もあったなあ。事件は大きく報道され、週刊誌にも掲載されていました。渋谷などの繁華街に集まる少年同士の喧嘩でした。亡くなった子は隣の学校の生徒。女子をめぐる言い争いから喧嘩になり、制止が効かなくなったとの報道でした。若い頃は様々な経験もなく、理性が働きづらいということもあるのでしょう。同世代でしたので、私にとってもショックでした。

しかしこの度の東松山の事件には、それ以上に驚かされショックを受けました。暴行の様子を動画撮影し、それをネット上にアップしていたというのですから、「制止が効かなくなった」だけではなさそうです。軽いんですよね。軽いノリで人を殺してしまう。笑い声さえ聞こえてきそうな印象です。怖いから笑うということはあるかもしれませんが、動画をアップするという行為からは、あまり恐怖は感じられません。

事件に関与した子たちは、いったいどういう環境で育ってきたのか。家庭は厳しい環境であったのかもしれないが、小学校の先生たちから教わってきたことは何だったのか。命の重さを感じるようなことが今までなかったとしたら、これは一大事です。

かつて小学校の道徳の時間では、教育テレビのドラマを観ていました。ボケっと観ていました。毎回の内容なんて憶えていません。しかし、ほぼ毎週観ていたせいか、主題歌やドラマの印象は憶えています。何となくの印象というのは、実は意外と心のなかで倫理観となって残っているものなのかもしれません。内容は思い出せなくとも、そのドラマの伝えんとするところはちゃんと伝播しているという。不思議なもんです。

幼児から児童の期間に教わることは極めて重要だと思います。私は父親から「命への優しい思い遣りを持て」と毎日のように繰り返し、本当に呪文のように聞かされてきました。うるせえ親父だと思っていましたが、繰り返し聞かされたので、すっかり身についているような気がします。虫の命を簡単に奪ってしまうこともあり、また、そもそも毎日、あらゆる命を食事としていただいている私ですが、その都度、「申し訳ない」という気持ちが出てきます。

命の重さとは即ち自分自身のことです。他者の命から自分自身の存在に気づいてくることもありましょう。軽くはなく、とても重たいもののはずです。

posted by 伊東昌彦 at 07:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2016年08月24日

エンディング産業展

昨日、東京ビッグサイトで開催されております、エンディング産業展に行ってきました。これはいわゆる終活関連の業者さんが集まる展示会で、葬儀社や石材店はもちろん、その周辺産業の方々が一同に会します。私は前回に引き続いて2回目の参加ですが、こうした展示会とは縁がなかったので、賑やかな雰囲気だけで圧倒されてしまいそうです。当然ではありますが、お葬式の雰囲気とはまったく異質です。

終活という言葉も生まれまして、人生の終末期をどのように過ごすのかということが注目され始めています。そこにたくさんのビジネスチャンスが生まれているのも確かなことなのでしょう。もちろん、仏教は2000年以上も前から、同じように人生の終末期をテーマに議論を重ね、それに向って生きるための実践をしてきました。終活ということも、やはり新しい事象ではありません。昔から人は死んできたわけです。

しかしながら、それをどう捉えていくのか、今、かなり自由な考えが出てきています。皆が終末期を真剣に考えることは、これこそ仏教が求めてきたものでしょう。ビジネスチャンスとして参画している方も多いでしょうが、是非、人は必ず死んでいくということ、これは決して他人事ではなく、自分自身の事なんだという見方を大切にしていただければと感じました。

posted by 伊東昌彦 at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2016年08月10日

お坊さん便に思う

本記事は『仏教神奈川』第71号に寄稿したものです。あまり一般の方の目にする会報ではないと思いますので、こちらに転載させていただきます。


ここのところ、いわゆる「お坊さん便」が盛況のようです。怪訝に思われた住職さんもいらっしゃることでしょう。私もインターネットのクリック1つでお坊さんを呼ぶことを想像しまして、驚きと同時に少々嫌悪感を抱いてしまいました。しかし、供養のための僧侶手配というものは、今に始まったことではありません。

鎌倉時代頃からは、葬儀等の供養を取り仕切る半僧半俗の人々もいたようです。寺院住職とは別に、こうした供養を生業にしていた人々もいたのでしょう。葬儀社や石材店から供養依頼を受けることがありますが、それも鎌倉時代からの流れのなかで捉えることが可能かもしれません。そう考えますと、仲介の場がインターネット上になったというだけで、何か新しいことが起きたということでもなさそうです。

とは言いましても、「お坊さん便」の問題点はむしろ別のところにあると言えます。手軽であるがゆえ、供養ということを軽く考えがちにもなりましょうか。供養の意味が忘れられてしまうかもしれません。「お坊さん便」のお坊さんも、お寺の住職さんと言うよりは、配達されてきたお坊さんと思われてしまうかもしれません。手軽さというものは、じっくり向き合う機会を失わせるものです。だからこそ手軽なのでしょう。供養は決して手軽に済んでしまうことではありません。別離の苦悩というものは、少々のことで忘れ去られるということではないからです。

これは個人的な思いですが、供養を手軽に済ますということが、命を軽んじるということにつながっていかないか心配です。別離は苦悩でありますが、同時に残された私たちにとりましては、命についての学びの場を与えてくれる仏縁でもあります。とくに子供たちにとりまして、おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなっていくということは、本当に大きな人生の学びになることでしょう。別れを経験することもまた大事なことです。じっくり向き合う機会を奪うべきではないでしょう。

posted by 伊東昌彦 at 09:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii