2021年09月21日

もしかして、祈祷をしたら罰が・・・

浄土真宗では祈祷をしたら罰が下ることがあるのでしょうか?という主旨のご質問をただきました。簡潔に答えるならば、もちろん罰は下りません。実は他でもない、私もこっそり祈祷をしたことはあります。気づいていないだけかもしれませんが、とくに罰は下っていないと思います。ご質問には次のようにお答えしました。

質問≪祈祷をしたら罰が下りますか?≫
回答≪下りません≫
浄土真宗はたしかに現世祈祷を頼りとしない宗旨でございます。理由を申しますと、浄土真宗の目的はまず私たちが来世に浄土へ往生させていただき、そこで自ら仏となった上で自由に人々を救うことにあります。往生は阿弥陀如来のはたらきに由っており、私たちの行為に由ってはいません。祈祷をするということは、私たちが神仏へ祈り、その行為に由って神仏が応えるという事態を指しています。阿弥陀如来のはたらきはこれとは異なり、祈る前から私たちにはたらいて下さっています。したがいまして、祈る必要がまるでないわけです。

このように、祈祷は浄土真宗の目的には当てはまらない行為となっていますが、そもそも祈祷は現世においての幸せを祈ることが目的です。しかし、現世での辛苦というものは早々なくなるものではなく、私たちは常に迷い続けています。間違えをおかしてしまったり、人に迷惑をかけてしまったり、こうしたことの連続が現世であると言えます。そして、それこそが私たちの真実の姿であり、それを誤魔化すことは出来ません。人生をよりよく歩むためには、誤魔化さず、しっかりと自分自身を直視することがむしろ必要です。失敗しても良いのです。阿弥陀如来は失敗しても見守って下さり、しっかりと浄土へ参らせていただけます。

とは言いましても、神仏に祈りたくなるのも私たちの姿です。苦しいときは神仏を頼みにしたくもなります。それで良いのです。こうした私たちの迷いを含めて阿弥陀如来は救って下さいます。祈祷をしたからと言って、決して罰が下るということはございません。それでもなお、阿弥陀如来は温かく見守って下さっています。ご安心下さいませ。現世は思い通りならぬものではございますが、阿弥陀如来のはたらきをいただき、ともに励んで生きて参りましょう。

posted by 伊東昌彦 at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2021年09月13日

運転も慚愧の心で

首都高で間近に事故と遭遇しました。人気のミニバンが後方から飛ばして来まして、私の前の前に強引に入り込みカッ飛んで行きました。あ〜あ〜、随分と無茶するなあと感じながらも、何事もなくその先のカーブを曲がったらハザードでそのミニバンが右側に停車。左側前方には倒れたバイク。そして、道路の真ん中にはライダーが横たわっていました。ミニバンの運転手は電話をしながら、ライダーに声を掛けていました。警察にも電話したのでしょう。早朝の渋谷線でのことでした。

私も20代の頃、よく友人と無茶な運転をしていました。大変恥ずかしいことです。若い頃のこととはいえ、両親にも周囲にも迷惑をかけました。勘違いしていたのです。自分はレーサーではありません。所詮一般ドライバーなので、車の性能が良くても自分の運転技術は下手です。電子制御の車に乗ると勘違いしがちですが、勘違いしてはいけません。50馬力程度の車であっても、まともに自分自身の技術で制御できるかどうか分かったものではありません。それが今は280馬力なんて当たり前(昔はメーカー自主規制で280馬力が限界だったかな)、300馬力オーバーの車もざらです。

ミニバンの運転手は仕事で急いでいたのでしょうか。ミニバンは背が高いですし、車体を制御するのはスポーツカーよりも難しいことでしょう。運転手は私と同年代ぐらいかなあ。若くはなかった。最近、おじさんが飛ばしているのによく遭遇します。若い子じゃなく、いい年したおじさんが前方を煽ったり、無茶な割り込み、自分の技術以上の加速をしていることが多い印象です。そして結構、いい車だったりする。

恥ずかしいと思わんのかなあ。

慚愧の心ですよ。自分に恥じ、他者に恥じる心を持ちたいものです。

ちなみに首都高はいわゆる高速道路ではないそうですね。最近女房に教えてもらいました。名前からてっきり東名などと同じ分類の高速道路かと思っていたのですが、実は違うようです。その証拠に制限速度が全線で低い。これも女房に教えてもらい、はじめて気づきました。危険個所だけ低いのかと思っていたら、そうではありませんでした。東名などの感覚で100キロ出すと捕まります。

posted by 伊東昌彦 at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2021年09月03日

法事をしてよかったなあ

先月、母の三回忌法要を勤めました。新型コロナウイルスの影響を考えまして、兄夫婦のみの参加となりました。叔母や叔父にも参列してもらいたかったのですが、年齢を考えますとコロナ禍では仕方なかったかと思います。昨年は一周忌法要でしたが、今年以上にコロナのことでゴタゴタしていまして、わが家だけでのお勤めとなり、兄家族にはお墓参りだけしてもらいました。昨年はあまり話をする時間もなく終えました。

今年は兄夫婦とも話をする時間がもてまして、とても嬉しい三回忌でした。法事はもちろん故人を偲ぶ場ではありますが、普段なかなか会えない人にも会うことができます。実は母の病気や父の介護のことなど、兄夫婦とはあまりうまく行っていない状況が続いていました。何となくギクシャクしていたわけです。しかもコロナ禍なので気軽に食事に誘うわけにもいかず、母が亡くなって以来、話をまともにする機会を逸していたのです。

三回忌法要で兄夫婦と話が出来まして、ギクシャクしていたものがなくなりました。少なくとも私のなかではなくなり、とても気分がスッキリしました。母のお陰なのかと、あらためて三回忌の仏縁に感謝です。自分の力だけではどうにも解決できないことでしたが、仏となった母が救ってくれたのかもしれません。まだまだ教えてもらうことが多いもんだなあと、しみじみ感じました。法事をしてよかった。

posted by 伊東昌彦 at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2021年08月27日

次世代型のお寺とは

今のお寺のあり方は基本的には江戸時代からのものであり、それが何と今まで継続しています。葬儀や年回法事を担うということで、言うなれば死別の悲しみの受け皿になってきました。それが全国的に認知され続けてきたからこそ、社会のなかで役立つお寺であったのでしょう。しかし、どうも最近はそうでもなく、お寺に期待することは特にないという風潮が高まってきたかもしれません。言い方を変えれば、お寺は社会に役立っていないと感じる人々が増えたということです。お寺の怠慢ということもあるでしょう。高圧的な住職であったり、お布施を強要することがあったりしますと、さらによくありません。

仏教は人生を生老病死と見ます。生まれて老いて病気になり死んでいくのが私たちです。最大の悩みであるとも言えるわけですが、不老不死にはなれません。むしろ人生は生老病死なのだと知ることこそが、根本的な悩み解決に向かう糸口となります。お寺はそういうことを常に伝えていかねばなりません。葬儀や法事そして法話会などでその都度こうした話をするわけですが、これ以外にも伝える方法があっても良さそうです。言葉だけではなく、社会的行動によって伝えることだって可能でしょう。次世代型のお寺が今こそ必要なのです。

ただし、問題があります。私にはまったくその具体案が頭に浮かばないのです。ここ数年はずっとこの事ばかり考えています。医療や福祉と協働するなど、本山ではすでに動きが見られるのですが、では私はどうすれば良いのかまだ妙案が出てきません。もっと頭をひねる必要がありそうです。

posted by 伊東昌彦 at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2021年08月17日

お盆を終えまして

今年もお盆参りが終わりました。コロナ禍と大雨でしたが無事勤められたことに感謝です。熱海の土石流があった日に善福寺でも土砂崩れがあり、その怖さを知った夏でもありました。今回の大雨でも亡くなられた方がいらっしゃいます。土石流や土砂崩れはその土地の形状に大きく関係してきます。形状はそうそう変わるものではありませんので、過去に被害があったのかも知っておくべきかと感じました。もちろん初めて被害が出る箇所もありますが、過去の教訓や言い伝えはとても大事です。温故知新、過去を尋ねることは日々歩む上で肝腎だと思います。

posted by 伊東昌彦 at 10:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii