2019年02月15日

宇宙の流れに還る

あの世はあると思います?

私は多分何かしらあるんじゃないかと思っています。とか言って、坊さんとしては極楽浄土なんですが、これも敢えて言えばそう名づけているだけで、世間的な言い方に過ぎません。私は浄土真宗で言うところの、浄土へ還るって言い方がとても好きなんですが、私たちはどっかへ還るんですよ。でも、それはこの宇宙と無関係なところではなく、次元は異なるかもしれないけど宇宙のどこかに関係していると思うんです。仏教では因果応報と言いますが、因果というのは関係性であって、関係性は絶対に継続し続ける。継続すると言うけれど、それは私たちが普段感じているような直線的な時間においてではなく、円になってつながっている。過去や未来というのは直線的なイメージにすぎず、円であれば過去は未来で未来は過去になる。命はおそらく、こうした宇宙の根源的で無限な流れに還っていくのではなかろうか。

私の命は、今、私なわけですが、私じゃないときもあり、無数に宇宙のなかで生きてきている。それはこれからも無限に続いていくわけで、還っては往き、往っては還る。還るまでの過程がどうなっているのかは分からない。幽霊がよく出るらしいけど、幽霊だってもしからしたら何らかの過程であって、何かの間違いで見えてしまっただけにすぎないかもしれない。システムにエラーはつきもので、エラーと修正を繰り返している。幽霊はエラーのたぐいかもしれない。しかし、幽霊が妙に人の姿であったりするのは、どうも変だなあ。私という個性はデータとして命に残るだろうけど、それを私というステージが終わっても表示する意味はまるでない。還るわけだから。やはりそこは生きている人のイメージであって、極楽浄土などの描写と同じように、世間的なイメージなんだと思う。経典は言葉で表現されるものなので、どうしても世間を超えることは出来ない。

私は宇宙であり、宇宙は私なのではなかろうか。一即一切、一切即一、という言葉があるけど、まさにその通りで、私自身が宇宙なんだという発見が仏教にはあるのでした。そして、宇宙は成、住、壊、空を繰り返している。この無限な繰り返しに私は還るのではなかろうか。

宇宙の流れに還るのが死ぬってことなんでしょう。ただ、還るっていうのも世間的なイメージです。

posted by 伊東昌彦 at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2019年02月12日

前世と来世‐解脱‐

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

前世と来世 ‐解脱‐

迷いの世界を生きている私たちは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を輪廻していると言われます。天でありましても、そこには快楽しかなく、やはり迷いから脱することが出来ていません。自分を顧みることがなければ、迷いの原因たる欲望を減らすこともままなりません。快楽ばかりでは、こうした機会を得ることは難しいでしょう。自らの際限なき欲望が苦悩を増やすわけですが、その因果関係に気づいていかなければ、結局は迷いの連鎖を断ち切ることが出来ないと言うのです。

しかしながら、自分のすがたを知るということは容易なことではありません。他者に嘘をつかないようにしても、無意識のうちに、自らに対して嘘をついてしまっていることありましょう。社会生活を送るなかにおいて、いつの間にか、自分にとっての理想的な自分を作り上げてしまっていることもあるようです。その虚構を守るため他者に攻撃的になり、対人関係において不具合を生じさせることもしばしばです。自分を知るということは、意外にも難しいことではないでしょうか。

仏教の修行者たちは、自らの心を瞑想によって観察してきました。どこに迷いの根源があるのか突き止めようとしたわけです。迷いを根絶することによって真理に通達し、転じて智慧を獲得することができます。智慧の獲得は業の蓄積と発動を停止し、それによって輪廻からの解脱が達成されます。それが覚るということであり、仏を覚者とも言う所以です。智慧は世俗的な知恵とは異なり、先入観なくして物事を即座にあるがまま認識する作用です。虚構はすべて打ち払われます。

サラッと書きましたが、実際、こうした修行は極めて難しいことです。(次回へつづく)

のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/

posted by 伊東昌彦 at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2019年02月08日

児童虐待の報に接して

児童虐待が増えているとの報道が今朝ありました。以前も聞いたことです。歴史的に見れば減っているとも言えるのかもしれませんが、現代的には増えているのは明白でしょう。報に接するたびに大きな憤りを感じます。仏教では阿弥陀如来の慈愛を親に譬えることがあります。如来は利他そのものですから、自分を省みないような親の愛をそこに見るのです。しかし、やはり如来と人とでは大きな違いがあります。あたり前のことですが、どんな親でもかつては子です。人はいつになっても経験から抜け出せないところがあります。如来はそうした過去の経験をすべて捨てているわけですが、人はそうはいきません。子であったときに受けた何らかの影響というものが、親になったときの行動指針になっていることは誰でも思うことでしょう。どんなに親が嫌いであっても、同じような親になってしまうということもあるようですし、それこそ経験から抜け出せていないことの証拠だと思います。

私もそうです。父の口癖は「勉強しろ」でした。私は父のように優秀ではなかったので、申し訳ないという気持ちと同時に、こういう親にはなりたくないものだと密かに思っていました。しかし今、私は子に向って「勉強しろ」です。なんだ同じではないか。酒ばかり飲んでいる父でした。ああはなりたくないものだと学生時代に思ったものですが、ああ、今日も酒飲みたいなあと思ってます、酒量は違いますが。基本的にはなかなか変わらないのが遺伝子なのか、良く分かりません。顔や声、仕草も似ているようです。

野田市での事件の父親は、いったいどんな家庭環境だったのでしょう。調べる気にもなりませんが、何かあったんだろうなあと思います。亡くなった子のことを思うと胸が張り裂けそうですが、こうした悲しい事件を少しでも減らすためには、児童相談所の充実や法整備はもちろんですが、基本は家庭環境の向上でしょう。景気が悪くなればこうした事件も増えるわけですが、それでもなお家庭環境を悪化させないため、国はもっと予算を割いてもらいたいものです。子は宝なんだと日本人は長年思ってきていること、今こそ忘れないでもらいたい。

posted by 伊東昌彦 at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2019年02月05日

2月になるとわが母校

どうもこの時期、2月になると自分や子の受験を思い出してしまいます。何だか最近の受験は長丁場らしく大変です。私なんて獨協立教学習院でおしまい。いずれの学校も今より難しかったんですよ。立教や学習院なんて四谷大塚で言えば60前後はあったんじゃないかなあ。青山学院の女子なんて桜蔭やJG並みだったような気が。今、再び付属校人気らしいですが、小学生も大変。

なお獨協も今より10ポイント以上偏差値良かった…、と思う。先日、獨協中高の仲間と飯田橋で飲みまして、どうも獨協中高の経営はいかんねえという話になりました。偏差値ガタ落ちなんです。仲間は皆小規模ながら経営しているので興味があるんだと思います。私も一応、経営者の端くれなのですが、寺は会社に比べればのんびりしたもんです。住職であっても他業種の方と交流するのは価値あることでしょう。

学校もお寺も、時代とともに変化しないと置いてけぼりです。獨協中高はドイツ語を学ぶ学校が前身なので、かつてはドイツ語クラスもありました。でも今ではドイツ語の需要はあまりなく、ドイツ語クラスも消滅です。自由な校風で生徒の自主性が重んじられる学校でもありました。時代が変わりまして、ドイツ語という特徴がなくなった学校はカラーのない学校へ、そして進学実績を上げるため管理教育へ。

わが母校ながら、時代に乗るのが巧いとは言えないかなあ。ドイツ語の需要がなくとも、それが長年の特色であるのだからドイツ語教育を前面に出すべきだと思うし、今風の管理教育なんて伝統私立校には上手くできないでしょう。だって先生の顔見ても懐かしい顔多いんだから、そりゃ無理な話じゃなかろうか。ドイツは今なお学ぶべきところがある国だし、仮に日本でドイツへの興味が薄れていたとしても、それを逆手に取ってさらなる特色にしていけばもっと注目されると思うんだけど、気のせいか。

お寺も同じとこあるかもしれません。何でも今風がうけるわけでもなく、長年大事にしてきたところに、さらに磨きをかけるべきなのかと、わが母校の現状から学びました。有難う獨協中高!復活に期待!!

posted by 伊東昌彦 at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2019年01月28日

2月法話会お休みのお知らせ

2月法話会は都合により休会といたします。申し訳ございません。次回は3月3日(日)午後2時からとなりますので、お参りをお待ちしております。 合掌

住職 伊東昌彦
posted by 伊東昌彦 at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge