2021年02月19日

学校の「変なとこ」

受験シーズン真っ盛りですね。今年は新型コロナウイルスの影響で受験生は苦労したと思います。わが家の娘も大学受験生でしたが、あまり芳しくなかったですね。まあ本人の自覚という問題もありますが、うまく勉強がはかどらなかった側面はちょっとあるかなあ。いずれにしても高校卒業を迎えることとなりまして、お世話になった学校には感謝しています。よい友人や先輩に恵まれたと思います。勉強はいまいちでしたが、剣道部で中高6年頑張りました。剣道部がなければ落第していたかもしれません。親として学校生活に満足しています。

娘はキリスト教主義の学校でした。受験の際には宗教校を優先的に受験校として選びました。お寺の娘ですが、まずは仏教とかキリスト教とかというようよりも、普段の生活のなかで宗教心を育んでもらいたいと願ったからです。住職として、父親としてそれが上手くいったのかは分かりません。教養としてキリスト教を知ることは大いに価値あることですし、それは果たせたでしょう。肝腎の宗教心はどうかと言えば、娘の心を覗けるわけではないので分かりませんが、慈しみの心は育ったかなという印象です。慈しみは宗教心の根幹と言えましょう。

宗教系の学校は不人気だそうです。教義に染まっても困るなあというのは親として理解できます。ただ、伝統的な宗教宗派であれば、いきなり学校現場で布教なんてないでしょう。とてもやんわりとしたもので、宗教的な教養が身につく程度だと思って良いです。そもそも日本の宗教的国柄というものは、1つを選び熱狂的になるものではありません。広く浅く、寛容的なのが日本です。伝統的な宗教宗派の学校は歴史が長いことが多いですし、そのあたりはよく心得ていることでしょう。そうでなければ、入学試験を課してまで生徒を広く集めることなんてできません。

ただ、ちょっと変なとこありますね。もちろん親として受け入れ可能な「変なとこ」なんですが、伝統というよりも、学校としての頑固さを感じることはあります。一方、そこが安定感になっているからでしょうか、親としての安心につながっているとも言えます。学校によって「変なとこ」は違いますが、入学前にはよくよく調査したほうが良いでしょう。今はネットで情報収集可能ですし、ネット上で取捨選択して良い情報を得られれば、その学校のことを事前にある程度知ることが昔より容易です。

たとえば浄土真宗本願寺派の宗門校である武蔵野大学中高では、講堂には思い切りご本尊阿弥陀如来がいらっしゃいます。そして年間行事を同校サイトで見てみますと、「報恩講」とか「彼岸会」とか、お寺に馴染みのある行事がゴロゴロです。築地本願寺に参拝するとか、そういう宗教行事が普通に正課になっています。なんでそんなことに時間を費やすのか、もっと授業時間を増やしてほしいと思うかもしれませんが、授業と同じくらい大事な宗教行事なわけです。娘の通う学校でも、そもそも土曜日は授業がありませんし、宗教関連のお休みも多かったと思います。一般的に見れば「変なとこ」でしょう。

私はこういう「変なとこ」が大好きなので、わざわざ選んで入学させたわけです。私自身は宗教校ではない学校でしたが、哲学者が創立したからなのか、やはり「変なとこ」が多々ありました。自由とはどういうことなのか、生徒自身に考えさせられるような環境でした。言い換えればほぼ放置だったわけですが、同級生を見ると立派に育っている輩も多く、まあまあ良い教育環境であったのかと思えます。わが母校である獨協中学高校は、先生も含めて「変なとこ」だらけでした。仲間も変人が多かったように思います。皆それぞれ変人で頑張っています。さてわが娘はどうなることやら、健やかであることを願います。

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2021年02月15日

志る角

緊急事態宣言下ではありますが、東京・六本木の「志る角」という料理屋さんに行ってきました。二代目店主は中高時代の友人なのです。お父上から立派に継承しまして、六本木という激戦区ではありますが精進しています。コロナ禍のなかピンチかと勝手に思いまして、押しかけてきました。消毒・検温などの対策は万全であり、カウンターは通常の半数でパネル仕切りを入れています。私は5時30分頃行きまして、閉店の8時にはお店をあとにしました。お持ち帰りでも頑張っているようでしたが、店内は平常時に比べてやはり空いている状態でした。夜が勝負のお店ですので、20時閉店では厳しいことでしょう。それでも雇用を維持しつつ何とかしのいでいるようで、友人として非常に誇らしいことでした。ちなみに味は最高ですよ!スタッフも気持ちのいい方ばかりです。

おじさんになったからかもしれませんが、中高時代の友人っていいものだなあって最近つくづく思います。

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2021年02月05日

男女交際と生徒の本分

男女交際を理由に退学処分になり、それに関する提訴があったとの報道がありました。故郷に近い学校なので馴染みがあります。高校野球と芸能人の印象が強い学校ですが、男女交際に厳しかったとは知りませんでした。互いに好きになると問題なんですかね。それで学業が疎かになれば問題ですが、退学処分になるほどの理由があるのかなあ。校則違反だから退学というのは正論のようにも聞こえますが、そもそも校則自体に問題があればどうなのでしょう。互いに好きになり、気持ちを確認すればいわゆる「交際」となるのかと思います。別に公に認定機関があるわけではなく、言うなれば気持ちの問題です。すごい曖昧なのですが、どうやって論理的に証明するのか私には分かりません。二人が認めたから退学処分なのでしょうが、どこから「交際」と認定するのかは非常に難しように思います。手をつないだら「交際」?そんなアホな。ちゃんと勉強していれば問題ないと私は思いますねえ。

親鸞聖人が好きな子できて、坊さんなので悩んだそうです。坊さんは本来、結婚しちゃダメなんですよ。仕方ないからお師匠様の法然聖人に相談したそうです。たしかに坊さんで好きな子できるのは一大事ですよね。坊さんやめるしかないかも、ってほど悩んだのでしょう。そしたら法然聖人は、結婚して仏教できないようなら結婚はやめとけと。仏教、つまり法然門下ではお念仏できなくなるようなら、結婚なんてするもんじゃない。お念仏ができるのであれば、別に構わんだろうと。たしかに好きな子できるのも一大事かもしれんが、本当の一大事はお念仏ができなくなるってことだよ、という主旨だと思います。それで親鸞聖人は結婚されました。奥様は恵信尼様です。お二人でお念仏。

高校の校則には、報道によりますと「特定の男女間の交際は、生徒の本分と照らし合わせ、禁止する」とあるそうです。「生徒の本分」、つまり学業であり勉強ですよね。「生徒」とありますので当然です。生徒は勉強するのが責務ですから。こういう校則を作成するのであれば、では何故、「特定の男女間の交際」というものが、「生徒の本分」である学業をなおざりにさせることになるのか、やはりちゃんと論理的な説明文があってほしいものです。生徒の本分と照らし合わせた結果、それが侵食されることになると断定しているわけですから、その理由を明確にしてほしいなあ。男女交際によって、救済不可能なほど成績が下がったというのなら理解できますが、むしろ上がる場合もあるんじゃないの?

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2021年01月23日

親鸞聖人御消息第九通

「五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり」

本御消息は「慈信房義絶状」とも言われ、親鸞聖人が異説を唱える慈信房善鸞を義絶されたものです。善鸞は親鸞聖人の御子息です。親鸞聖人は、善鸞が浄土のみ教えの要となる第十八願を蔑ろにした布教を行っていたことから、義絶という苦渋の決断に至られました。破門ということだけではなく、親子の縁をも切ったことになりましょう。親鸞聖人にとりまして、阿弥陀如来のご本願を誤って人々に伝えることは、わが子であっても許されないことであったのです。なぜかと言えば、善鸞の行いは五逆そのものであったからです。

仏教には五逆という五つの重たい罪のあることが説かれ、これを犯した者は地獄の深みに落ちていくとされます。また、第十八願には「五逆と誹謗正法とをば除く」とありまして、ご本願からも五逆が漏れてしまうことが説かれています。この五逆について、中村元先生の『仏教語大辞典』(東京書籍)によりますと、@母を殺すこと、A父を殺すこと、B聖者(阿羅漢)を殺すこと、C仏の身体を傷つけて出血させること、D教団の和合一致を破壊し分裂させること、とあります。善鸞は異説を広めていたわけですから、Dに該当するのだと思われます。阿弥陀如来のご本願の救いは、たしかにすべての命に向けられています。しかし、だからと言って何をしても許されるというわけではありません。

この世のあり様を見るならば、新聞やニュース番組には毎日のように五逆があふれかえっています。家族同士のいざこざ、尊大な態度、裏切り行為、本当に切れ間なく報道されています。いえ、報道ばかりではありません。私たちの身近なところで、さらに言えば自分自身においてさえ、こうした五逆はあり得ることとして認め得るはずです。仏教でいくら五逆は地獄行きだ、ご本願からも漏れてしまう、と警告を発したところで、実際にはこのあり様です。私たち凡夫は、いつでも五逆と隣り合わせなのです。むしろ五逆こそが私たちの姿であると言えましょう。では、救われない私たちにとりまして、ご本願はどのようにはたらいてくるのでしょうか。

親鸞聖人は義絶というショッキングな方法で、わが子である善鸞を導かれたのだと思います。善鸞はおそらく、自らの罪の重さに気づいていなかったのでしょう。わが子が五逆の大罪を犯しているなんて、こんなに悲しいことはありません。表題のお言葉からは、聖人の親としての悲しみが伝わってきます。第十八願で敢えて除かれる五逆ですが、五逆こそが私たち凡夫なのであり、善鸞なのです。そこに気づかされてこそ、はじめてご本願のはたらきを素直に喜べることでしょう。もとより阿弥陀如来の救いに条件はありません。ご本願には、私たちのなかの五逆を知らしめるはたらきもあることを、本御消息から学ばせていただきたいものです。

(本文は『やさしい法話』12月号へ寄稿したものです)

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2021年01月14日

これからの日本、古い車も大切に

私は坊さんですが、いわゆる出家僧ではなく、市井に生きる在家に近い坊さんです。浄土系の坊さんは概ねこうした傾向にあり、とりわけ浄土真宗は僧俗(坊さんと門徒さん)の距離が近いと思います。しかし、宗派がそうだからということではなく、私自身、こうした坊さんのあり方ではないと得度する(坊さんになる)ことは無理だったでしょう。まあ、修行が足らんわけですな。全体的に足りない。こんなご時世でありましても、ああ、早く飲み行きたいなあとか、そんなことばかり頭に浮かびます。インド仏教では不飲酒なので、般若湯(日本の坊さんの言う酒)なんて存在しません。般若とは悟りの智慧のことであり、修行が完成した暁にようやく得ることが出来ます。酒飲んでたら得られないでしょう。酒飲むと煩悩が膨張しますのでまず無理です。

私はそもそも酒癖が悪いのですが、最近どうもそれに磨きがかかりまして、酔っぱらっている状態だと頭くることが多くなって困ります。周囲にも迷惑をかけています。もともとそういう人なんでしょうが、不満が膨張してくるんですよね。酒飲んでも変わらない人いますが、凄いなあと思います。私は根本的に不満があるのでしょう。しかし不満というものは、よく考えればすべて自己都合のいい加減極まりないものです。あたり前ですが、満たされないから不満なのです。極楽浄土にいらっしゃる菩薩様は「少欲知足」なのだそうです。少ない欲望で十分だと知っているわけです。あれ欲しい、これ欲しいじゃないんですよね。私はどうも欲張りなのでしょう、生来そうだと思います。

これからの日本、どうなるのでしょうか。資源のない国です。人材が豊富かと言えば、私たち団塊ジュニアは人数は多いのですが、う〜む、どうもこう競争にすでに疲れ切っているような印象です。持続可能云々と叫ばれる時代ですが、これはまさに「少欲知足」が原点です。成長時代は大量消費で豊かになってきましたが、これからは良いものを長く使うことが重要そうです。ドイツでは車の技術革新が目覚ましく、無駄のないエネルギー利用を念頭に置いているようです。どんどん新しい車が出てきます。一方、古い車を乗り続けることに対して、自動車税の減税政策があると聞きます。30年ほど古く非改造の車であれば、その恩恵に浴せるとのことです。日本はどうかなあ、古い車に乗れば乗るほど負担が高まってくるように思えますが、こうしたドイツ人の精神を見習いたいものですね。ものは大切に。

posted by 伊東昌彦 at 09:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii