2016年08月28日

繰り返し聞かされること

少年事件が後を絶ちません。もちろん昔もありました。私が高校生の頃もあったなあ。事件は大きく報道され、週刊誌にも掲載されていました。渋谷などの繁華街に集まる少年同士の喧嘩でした。亡くなった子は隣の学校の生徒。女子をめぐる言い争いから喧嘩になり、制止が効かなくなったとの報道でした。若い頃は様々な経験もなく、理性が働きづらいということもあるのでしょう。同世代でしたので、私にとってもショックでした。

しかしこの度の東松山の事件には、それ以上に驚かされショックを受けました。暴行の様子を動画撮影し、それをネット上にアップしていたというのですから、「制止が効かなくなった」だけではなさそうです。軽いんですよね。軽いノリで人を殺してしまう。笑い声さえ聞こえてきそうな印象です。怖いから笑うということはあるかもしれませんが、動画をアップするという行為からは、あまり恐怖は感じられません。

事件に関与した子たちは、いったいどういう環境で育ってきたのか。家庭は厳しい環境であったのかもしれないが、小学校の先生たちから教わってきたことは何だったのか。命の重さを感じるようなことが今までなかったとしたら、これは一大事です。

かつて小学校の道徳の時間では、教育テレビのドラマを観ていました。ボケっと観ていました。毎回の内容なんて憶えていません。しかし、ほぼ毎週観ていたせいか、主題歌やドラマの印象は憶えています。何となくの印象というのは、実は意外と心のなかで倫理観となって残っているものなのかもしれません。内容は思い出せなくとも、そのドラマの伝えんとするところはちゃんと伝播しているという。不思議なもんです。

幼児から児童の期間に教わることは極めて重要だと思います。私は父親から「命への優しい思い遣りを持て」と毎日のように繰り返し、本当に呪文のように聞かされてきました。うるせえ親父だと思っていましたが、繰り返し聞かされたので、すっかり身についているような気がします。虫の命を簡単に奪ってしまうこともあり、また、そもそも毎日、あらゆる命を食事としていただいている私ですが、その都度、「申し訳ない」という気持ちが出てきます。

命の重さとは即ち自分自身のことです。他者の命から自分自身の存在に気づいてくることもありましょう。軽くはなく、とても重たいもののはずです。

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2016年08月24日

エンディング産業展

昨日、東京ビッグサイトで開催されております、エンディング産業展に行ってきました。これはいわゆる終活関連の業者さんが集まる展示会で、葬儀社や石材店はもちろん、その周辺産業の方々が一同に会します。私は前回に引き続いて2回目の参加ですが、こうした展示会とは縁がなかったので、賑やかな雰囲気だけで圧倒されてしまいそうです。当然ではありますが、お葬式の雰囲気とはまったく異質です。

終活という言葉も生まれまして、人生の終末期をどのように過ごすのかということが注目され始めています。そこにたくさんのビジネスチャンスが生まれているのも確かなことなのでしょう。もちろん、仏教は2000年以上も前から、同じように人生の終末期をテーマに議論を重ね、それに向って生きるための実践をしてきました。終活ということも、やはり新しい事象ではありません。昔から人は死んできたわけです。

しかしながら、それをどう捉えていくのか、今、かなり自由な考えが出てきています。皆が終末期を真剣に考えることは、これこそ仏教が求めてきたものでしょう。ビジネスチャンスとして参画している方も多いでしょうが、是非、人は必ず死んでいくということ、これは決して他人事ではなく、自分自身の事なんだという見方を大切にしていただければと感じました。

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2016年08月10日

お坊さん便に思う

本記事は『仏教神奈川』第71号に寄稿したものです。あまり一般の方の目にする会報ではないと思いますので、こちらに転載させていただきます。


ここのところ、いわゆる「お坊さん便」が盛況のようです。怪訝に思われた住職さんもいらっしゃることでしょう。私もインターネットのクリック1つでお坊さんを呼ぶことを想像しまして、驚きと同時に少々嫌悪感を抱いてしまいました。しかし、供養のための僧侶手配というものは、今に始まったことではありません。

鎌倉時代頃からは、葬儀等の供養を取り仕切る半僧半俗の人々もいたようです。寺院住職とは別に、こうした供養を生業にしていた人々もいたのでしょう。葬儀社や石材店から供養依頼を受けることがありますが、それも鎌倉時代からの流れのなかで捉えることが可能かもしれません。そう考えますと、仲介の場がインターネット上になったというだけで、何か新しいことが起きたということでもなさそうです。

とは言いましても、「お坊さん便」の問題点はむしろ別のところにあると言えます。手軽であるがゆえ、供養ということを軽く考えがちにもなりましょうか。供養の意味が忘れられてしまうかもしれません。「お坊さん便」のお坊さんも、お寺の住職さんと言うよりは、配達されてきたお坊さんと思われてしまうかもしれません。手軽さというものは、じっくり向き合う機会を失わせるものです。だからこそ手軽なのでしょう。供養は決して手軽に済んでしまうことではありません。別離の苦悩というものは、少々のことで忘れ去られるということではないからです。

これは個人的な思いですが、供養を手軽に済ますということが、命を軽んじるということにつながっていかないか心配です。別離は苦悩でありますが、同時に残された私たちにとりましては、命についての学びの場を与えてくれる仏縁でもあります。とくに子供たちにとりまして、おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなっていくということは、本当に大きな人生の学びになることでしょう。別れを経験することもまた大事なことです。じっくり向き合う機会を奪うべきではないでしょう。

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2016年08月07日

トップニュース

やや偏屈な話になるかもしれません。昨日はリオデジャネイロでオリンピックが開会されたとのことで、テレビではトップニュースになっていました。しかし、言うまでもないことですが、昨日は広島に原子爆弾が投下された「原爆の日」でもあります。アメリカのオバマ大統領が広島を訪問したことは記憶に新しいことです。訪問から初めての「原爆の日」でもありますし、個人的にはこちらがトップだと感じました。

意見として頭のなかで整理されていませんが、子供にはそう伝えました。

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2016年07月26日

生活感ある殺人シーン満載

私は寺で生まれ育っていない寺の子なんですが、父親からはかなり命の重さについて教え込まれました。父親は私から見れば変な人で、今でも気が合わず、ちょっと理解できない側面があります。学生時代は漫画家を志し、CMディレクターをしていた人なので、家庭内でやたらとキャッチコピーを連呼していました。「命へのやさしい思いやりを持とう」とか、「報恩生活してますか」とか、今でも心に残っています。壁に貼ってあったりするんですよ、台所とかトイレとかの。命の捉え方について、私とはかなり違いがありそうなんですが、それでも幼少の頃からの親の言葉というものは、今でも大きな影響力を持ち続けています。

昭和48年生まれの私は、戦争をまったく知らない世代です。祖父母から少しは聞きましたが、実際に戦地に赴いた母方の祖父はあまり話をしませんでした。お寺の祖父は病気であったようです。父親は昭和13年の早生まれですので、終戦の記憶があるそうです。よく戦闘機に追いかけられたと言っていました。それで実際に撃たれてしまった人もいるとか。機銃で人を撃ったのかと思うと、拳銃なら良いということではありませんが、ものすごい嫌悪感に包まれます。

ところで、私の小学生時代だったかなあ、ゾンビ映画がとても流行っていました。新宿のミラノ座とか、あの辺りを歩くのが怖かった記憶があります。昔の映画の看板って、何とも凄いインパクトでしょう。ゾンビ後もどんどんエスカレートして、かなりグロい映画が流行ったような気がします。漫画もそんな流れにあったのかなあ、たとえば『北斗の拳』なんて、「ひでぶ」ですよ。あれ白黒だからいいけど、カラーだと結構厳しい。アニメ化されたときは、視覚的な配慮が見られました。

こうした描写のみならず、殺人シーンを盛り込んだ映画、漫画、アニメを多々見てきた世代です。しかし、今言えることは、私たちが見たものの多くは、いわゆるファンタジーの世界だと思えるものばかりです。ゾンビだって、常識的に考えれば出現しません。『北斗の拳』のように、秘孔ついて「ひでぶ」もない。私のトラウマ映画の1つに『エイリアン』、あれ今でも胸からエイリアン出てきそうになりますが、やはりファンタジーです。生活感なんてまるでない。

本屋さんで立ち読みしますと、かつてよりハードな内容なものが増えたと思う。しかもファンタジー性を感じられないような、まさに近所や学校で起きそうなリアル性に満ちたものが多い。とても刺激的なので、たしかに面白いなあと感じる漫画もあります。そして、社会的な警鐘になっている意義深いものもある。実際にあるような事件の裏側を描くことによって、ああいう世界に踏み入れてはいけないんだと思わせることは、ある程度評価できることでしょう。多分…、上から目線ですが。しかし、それ以上に生活感あふれていまして、ファンタジー世代の私からしますと、恐怖を感じることもあります。生活感ある殺人シーン満載なんですよね。

10代や20代の若い世代が、こうした漫画等に触れて何をどう感じているのかは分かりません。簡単に殺人してもいいんだと短絡的に感じてしまうのか、そこは違うよとファンタジーを感じてくれるのか、全然分かりません。私たちの10代20代の頃とも思考が異なる部分もあるでしょうし、容易に想像できないのです。ただ、人の命を奪うということは、その人の人生はもちろん、周囲の皆の人生も奪うことになります。簡単だと思ってはいけない。誰にとっても、命はかけがえのない大切な存在です。自分で大切だと思えるものを、他者から奪ってはいけない。

子供たちにちゃんと伝えられているのか、終戦の日を来月に控えまして、襟を正していきたいものです。

posted by 伊東昌彦 at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii