2017年12月01日

最近、頭固くて固くて

私は44歳なので、一般的には中年と言ったところです。しかし、どうも最近、頭が固くて固くて、自分の価値観から外れることを見聞きしますと、やたらと違和感を覚えてしまいます。若い頃から結構固いほうなんですが、さらに磨きがかかって堅固なものになってしまいました。この先、どんな頑固者になってしまうのか、自分でも不安です。

たとえばプロ野球。私が小学生のころは鉄道会社や新聞社や食品会社が親会社になっている場合が多く、固めのイメージがありました。時代も変わったわけですが、今は何だか落ち着かない。了見が狭いんですよね。言い換えれば、これも自分自身に固執しているわけで、執着心の現れとも言えます。物事は変化していくわけですが、煩悩がかなり強いのでしょう。でも、親会社の商売の仕方ってのは、プロ野球全体のイメージにもつながるわけだから、大事だと思うんだよねえ。

相撲も昔から好きなので、お相撲さんの所作についても、イメージが固まってしまっているところがあります。こないだの優勝インタビューはきつかったなあ。

優勝インタビューだから、わきまえてほしいと思ってしまった。横綱には処分についての権限はもちろんないだろうけど、そもそも言及してしまうところに違和感を覚えた。万歳三唱にいたっては、もう常軌を逸脱しているかの印象。何が起きたのか!? 問題は未解決だし、万歳をする場面ではないでしょう。品格品格言うけど、品格は誰かに言われて、はいそうですかって身につくものではないし、もう品格が育つ土壌がないんじゃなかろうか。しかしまあ、品格ある横綱ってのも、パッと思いつくような方は・・・。武蔵丸ぐらい?

稀勢の里には大いに期待しているんですが、とても心配です。

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2017年11月27日

人口減という原因において

南足柄市の人口は4.2万人ぐらいです。そして、これはウィキペディア情報なので正確性は不明ですが、全国には814の市がありまして、人口の多い順で言えば599位だそうです。まあ、少ないほうですよね。543位以下は5万人以下となるようです。「市」の定義としては、よく5万人以上と言われますので、これに満たなくなってしまっている市は全国的に結構ありますね。同じぐらいの規模で言えば、県内では三浦市、千葉県では館山市、茨城県では下妻市、山梨県では富士吉田市が目につきました。

多くの市区町村は財政難と言われますが、少子化は目に見えていますし、そろそろ現実的な舵取りが必要な時期ではないかと思えます。南足柄市のみならず、神奈川県西部の人口はどんどん減るでしょう。同じような状況の街は多々ありますし、この地域だけ例外的に人口維持が出来るということは考えにくい。元も子もない言い方ですが、いくら町おこしを頑張ったところで域外からの転入者が増えるわけもなく、ましてや子が増えることはまずないでしょう。定年後ゆっくり過ごすという時代でもないので、高齢の方が余生を過ごす場というのも時代錯誤と言えるかもしれません。

全国的に有名な箱根町も小田原市も、そして今は人口増にある開成町であっても、同じように日本の人口減という状況のなかに飲み込まれていくことでしょう。私は東京都中野区の出身ですが、私の卒業した小学校が統廃合で消滅することになりました。中野区の人口は現在、32.2万人です。中野区は県西部で言えば大井町と同じぐらいの広さですが、人口は県西部2市8町の合計34万と同程度となります。これだけ人口過密であるにも関わらず、小学校は統廃合になる、つまり、子がいないという状況に陥っているわけです。

であるならば、人口減なので相互補完しましょうという市町村合併は急場をしのぐ策であるとはいえ、根本的な解決にはなっていないことは明白です。人口減ったから合併ということを繰り返していれば、そのうち横浜市と合併になることでしょう。当面の財政を考慮するならば、近隣市町村の合併は間違いではないと思いますが、今、せっかく南足柄市と小田原市で合併検討が話題になっていることなので、もっともっと先を見た議論にならないものかと感じます。小さい議論に終始しているような気がしまして、ちょっともったいないなあ。

経営学者のドラッカーではありませんが、未来は予測するものではないでしょう。仏教においても、因果応報と言いまして、直接であろうが間接であろうが、原因があるからその結果がもたらされるのだと言い切ります。原因を知ることこそ大事なのであり、仏教は原因追及の宗教であるとも言えるでしょう。人口は確実に減るという原因が明確なのですから、県西部の将来像はそれだけでもある程度は分かってきます。もちろん、より詳細な未来像を知るためには、さらなる現状認識が必要であることは言うまでもありません。

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2017年11月22日

経論の教えから『維摩詰所説経』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その5 『維摩詰所説経』巻上

煩悩を断ぜずして涅槃に入る

仏教では基本的には煩悩を消し去ると言いまして、あまりよろしくない欲望はなくしていくことを目標にします。これは簡単に言えば貪りの心であったり、怒りの心であったり、また、物事を自己中心的に見てしまう心のことです。あれも欲しいこれも欲しいでは、いつになっても落ち着きません。怒ってばかりいては、楽しいこともつまらなくなってしまいます。自分勝手に振る舞っていては、気づけば周りには誰もいなくなってしまいます。こんな簡単なこと、誰でも分かっていますね。

誰でも分かっていること、これを何とかするのは本当に難しいことです。裏を返せば、難しいからこそ、誰でもそりゃそうだと頷けるのでしょう。こうした心がなくなれば、たしかに平穏な生活を営むことが出来そうです。煩悩はよく火に譬えられまして、それがすべて消えた寂静な境地を涅槃と言うのです。涅槃とはサンスクリット語で「ニルヴァーナ」と言います。本来的には火が吹き消された状態を指す言葉です。

ニルヴァーナと言えば、40代ぐらいの方ですとロックバンド「NIRVANA(ニルヴァーナ)」を連想されるかもしれません。バンド名はサンスクリット語から取ったのでしょう。なかなか良いセンスをしています。曲もかなりカッコよかった。しかし、中心人物のカート・コバーンという方は悩みが多かったようで、歌詞は内面的で分かりづらいところもあるように思えます。苦悩を多く感じる方であったからこそ、仏教に言うニルヴァーナ=涅槃という境地に惹かれたのかもしれません。敢えて言えば、消え去りたいという願望であったとも考えられるでしょうか。

ただ、ロックは煩悩そのものです。煩悩の発露こそロックという表現であると言えるでしょう。煩悩を直接ぶつけるから良い曲が出来るわけです。そして、そもそも表現はすべて煩悩であるとも言えるので、いかに芸術性が高いものでもやはり煩悩を消し去ることは出来ないでしょう。表現という過程において、自己中心性がまったく消えることは考えにくいことです。なぜならば、表現とは取りも直さず自己発現であり、自意識を完全に捨てた表現というのはあり得ないからです。涅槃とは究極的には仏の境地であり、それは自他平等であるとも言われます。自と他との区別はもはや存在しません。愚かな自己中心性こそ、煩悩の根源であると言えるのです。

とまあ、いきなり堅苦しい話になってしまいましたが、煩悩とはかなり手強いものだということが分かるかと思います。それで今回の法語ですが、「煩悩を断ぜずして涅槃に入る」とあります。なんだ、言っていること全然違うじゃないかとなりますが、涅槃は決してどこか遠いところにあるわけではありません。煩悩と涅槃とは裏表みたいなものです。涅槃を探し求めて旅をしたところで、どこか遠くにあるというイメージではありません。煩悩まみれの今、そのままこそが涅槃であるのです。これは意外と簡単な話で、他でもない私自身の心が煩悩で曇っているため、今ここにある真理に気づくことが出来ないというわけなのです。そもそも煩悩を消すことことに拘ること、これもまた煩悩であるので、実はあるがまま、そのままであることこそ、真理であると言えるのです(これこそが難しいのですが)。

ロックというものは頭で聴くのではありません。聴こえるまま、そのままでないと自己中心性が入りこんでしまいます。煩悩を煩悩のまま、そのまま受け入れるのです。これは表現者にも言えることで、心をそのままストレートに表現できれば、自己中心性を消し去ることが出来ることでしょう。こうした意味において、やはりロックは生、すなわちライブで聴くことこそ、表現者と聴聞者との一体感のなかで自己中心性は消えていくのだと思えます。ロックは表現である以上、涅槃とは異質のものではありますが、敢えてこう考えることも出来るかもしれません。

NIRVANAのカート・コバーンは涅槃の境地に到達できたでしょうか。私はきっとできたと思います。彼が亡くなったのは、94年の4月5日だそうです。

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2017年11月03日

お逮夜に「水無月祓」

明日は善福寺報恩講のお逮夜です。鎌倉能舞台の中森貫太先生に舞っていただきます。5時頃から法要を修行しまして、お能は午後5時半始まりとなります。「水無月祓」です。

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今日は本堂をお能仕様にしました。出来れば薪能が良いのですが、セットも大掛かりとなりますので本堂能です。スペースの関係上、ご本尊を背にしてしまうのが残念なのですが、それなりに格好をつけてみました。

皆様、明日は是非お参り下さい。
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2017年10月28日

浄土真宗や仏教を知るためには

わが家は3人の子に恵まれました。子が生まれ来るということは、とてつもなく不可思議なことです。不可思議とは仏教用語で、私たちの思いはからいを超えているという意味です。こうした状況にあることを、大変有難いことだと感じています。有難いとは「有ること難し」ということで、そうであることが、本来はとても難しいこと、すなわち、多くの因縁が重なり合って、ようやくそうなっているということを意味します。まさに命というのは有難いことだと言えるでしょう。

さて、わが家の教育方針(と言うほどのものではありませんが)は「宗教」です。そりゃまあ、お寺なので当然と言えば当然ですが、「仏教」ではなく「宗教」ということにしています。仏教については、私のしゃべっていることを聞いていれば、何となく分かるかなあと思いまして、あまり重視していません。仏教だけになってしまっても、視野が狭くなってしまうかという思いもあります。浄土真宗を知るためには他宗派の教えを、仏教を知るためには他宗教の教えを、宗教を知るためには社会を、と私は考えています。また、これは逆のことも言えるわけで、社会を知るためには宗教を知る必要があります。日本人社会を知るためには日本の宗教を、欧米人社会を知るためには欧米人の宗教を知ることが大事でしょう。

かつて論文指導をいただいた竹村牧男先生は、ご自身は大学院で華厳学を専攻されたかったそうですが、指導教官の平川彰先生から、「では唯識を勉強しなさい」と指導を受けられたそうで、それで長年唯識の研究を続けられてきたそうです。華厳経は大変奥深い教えが詰まっているので、その理解のためには唯識が絶対必要だということのようです。先生は華厳経の授業のとき、今、華厳経を勉強できて凄く嬉しいというようなことを仰っていました。

浄土真宗を正しく知るためには、まず宗教を学ぶことが必要だと思います。浄土真宗の坊さんが、他宗のことなんて全然知らない、キリスト教やイスラム教のことなんて興味ないというのでは、おそらく浄土真宗をうまく伝えることは出来ないでしょう。3人の子のうち、誰が住職を継いでくれるのか分かりませんが、こうしたことを念頭に子育てをしているつもりです。

さて住職、とりわけ浄土真宗は世襲が伝統的になっていますので、浄土真宗の住職の場合、後継者育成というのは結構な課題です。一般家庭に比べて異質なところがあるのが寺院家庭です。私は寺から離れた場所で「会社員の息子」として育ちましたので、それが良く分かります。詳細は省きますが、とにかく変なところがあるわけなのです。上記のような教育方針も、やはり一般的には変わっていることでしょう。お寺で育ちますと、たしかに家はお寺の一部ですので広めであったり、嬉しいこともありはしますが、同時にお経を読ませられるとか、いきなり境内掃除しろだとか、課せられるものがあったりしますので、子にとっては面倒なことも多いでしょう。

と言うことで、長女も長男も宗教系の学校に進学しています。宗教系の学校は高校からだと入学できないことも多いので、中学から入学ということになりました。中学受験は大変でしたが、高校受験のように学校での成績が関与してくることはあまりないので、むしろ分かりやすいものでした。しかし、本人たちには無理をさせまして、親としても貴重な時間を受験勉強に割かせてしまったことに後悔がないわけではありません。私自身も中学受験をしましたが、小学校6年生の記憶は他学年のときに比べあまり残っていません。頭が悪く、悲惨だったからでしょう。10歳前後に脳を鍛えることは価値あることだと思いますが、それは受験勉強ではなくてもできることですし、難しさを感じました。

2人の学校では礼拝がありますが、長女のほうが出席必須で、長男のほうは自由参加です。倫理等の授業もそれなりにあるようなので、住職としても親としても満足しています。礼拝には私も参加してみたいほどです。仏教の礼拝(→らいはい)は毎日してますが、他宗教のものにちゃんと参加したことはありません。宗教家とはいえ、意外と知らないことも多いわけです。2人にとっては良い学びになると思います。将来、仏教とは無関係な方面に進んでいくかもしれませんが、それはそれで、親としては良いことだと思っています。しかし住職としては・・・、3人のうち誰か1人は頼んまっせ、というのが本音になるわけです。

それぞれの寺院家庭によって教育方針は異なります。学校はとくに気にしないという住職も多いでしょうし、全部仏教系で進ませるという住職もおられることでしょう。正解はもちろんないわけですが、私は宗教心を身近に感じることのできる社会人になってほしいと考えています。自分のなかに宗教心を持ってもらいたいと思っているわけです。宗教心というのは何か特別なものではなく、周囲への感謝の心(→仏教では縁起を知ること)、そして自分よりも大きな存在を感じられる謙虚な心(→仏を感じ、自分のいたらなさに気づくこと)のことでしょう。

宗教心はいつの時代でも大事です。次世代につなげていきたいものだと思っています。

posted by 伊東昌彦 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii