2017年01月09日

お寺のお正月とは

うちのような関東の一般的なお寺ですと、だいたい年末から年初にかけてお墓参りがあります。ご先祖さまにご挨拶をするわけです。先祖崇拝はインド仏教には見られませんが、東アジアでは広く見られる宗教的習慣です。先祖から連なるものとして自分の命を感じることは、仏教的な縁起を理解する一助になり得るでしょう。

お正月は元旦のお参りが最も多く、2日や3日は少なくなります。そして8日前後のこの時期が、お寺の住人にとっての「お正月やすみ」と言えるかもしれません。ただまあ、どこに行くというわけもなく、こうして玄関番をしながらブログを書いているのです。

今年の目標はと言いますと、まずは善福寺の経営安定化のための具体的方策を粛々と実行に移す、ということもありますが、最近遠ざかっているベースを弾く機会を増やしたいなあと思っています。今、居間のオブジェとして活躍してくれているマイベースですが、きっと心地よい響きを醸し出してくれることでしょう。
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2017年01月01日

本年もよろしくお願い申し上げます!

2017年になりました。本年もよろしくお願い申し上げます!

お正月と言えば、「も〜ぅ、い〜くつ寝〜る〜と♪」なわけですが、今も昔と変わらない楽しみであり続けているのでしょうか。年末、若者のクリスマス離れが話題となりましたが、お正月はまだまだ健在であってほしいものです。しかし、そもそも冒頭の歌を知らないとか・・・。あり得ます。

新年になって何かが劇的に変化するわけではありませんが、人には節目というものが必要です。生死だって節目です。不老不死であったら、きっとダラダラすることでしょう。目的もなく彷徨うのは辛い。節目は人生の活力になってくれるという意味において、新年を迎えることは喜ばしいことだと言えるかもしれません。

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2016年12月31日

早いもので大晦日です

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本年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします!
今年も除夜会を本日午後11時30分頃から修行いたします。
甘酒と記念品(限定30)をご用意しております。お参り下さい。

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2016年12月28日

キャリー・フィッシャーさんを偲んで

キャリー・フィッシャーさんが亡くなりました。私は『スターウォーズ』シリーズのレイア姫としてしか知りませんが、長年のファンとして感謝の思いでいっぱいです。行動力のあるヒロイン像は、SF映画の世界に新しい風を吹き込ませたと言えるかもしれません。ディズニーに移ってからの「7」でも再演され、貫禄のある演技を見せてくれたばかりのことでした。

ところで『スターウォーズ』は当然エンターテインメントですが、「フォース」という概念が登場し、ちょっと東洋的で神秘的な印象を与える映画でした。フォースはかつて「理力」と訳されたこともあるように、この世界に溢れる真理から力を拝借するというような意味合いが含まれているようです。「理力」なんて、なかなかの名訳だと思いません?

ただし、ヒットするにつれてフォースは単純な超能力、つまり念力やテレパシーや予知といった側面が強調されるようになっていったと感じます。どうやらフォース自体には倫理的な善悪はないようですが、人のなかにうずまく善悪のバランスには関係しているようなのです。善悪のバランスを取る方向にフォースははたらき、宇宙を存在たらしめていると言えるのでしょう。このような小難しい設定はマニアには好まれますが、一般的とは言い難いところがありますね。

『スターウォーズ』はスカイウォーカー家の人々の成長と苦悩を映し出すヒューマンドラマでもありますが、その舞台は広大な宇宙です。ライトセーバーや宇宙船も魅力的ではありますが、宇宙と人との関わり合いについて、もっと突っ込んだ解釈があってもいいかなあ。1作目で語られたフォースから、どんどん離れていっているような気がするんですよね。

いずれにしましてもファンを何十年も楽しませてくれる映画であり、そのヒロインであるキャリー・フィッシャーさんは偉大な存在であったと思います。きっとフォースと一緒になられたことでしょう。私たちは皆、宇宙の真理に還っていくものなのだと思います。

合掌

2016年12月20日

幽霊はいるのでしょうか?(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

幽霊はいるのでしょうか?

ここまで3回にわたって前世と来世のことに言及しましたが、皆さんはどちらに興味がおありでしょうか。前世でしょうか、それとも来世でしょうか。私ははじめ、来世のことのほうが心配でしたが、最近は前世の存在に関心があります。前世での行いにより、今こうして人として生かされていると思いますと、とても感慨深いものがあります。どれだけ輪廻してきたか分かりませんが、ようやく仏教、そして他力に出会うことができたわけですし、長い旅を続けてきたんだなあとしみじみ思います。前世は何をしていたのか、ちょっと気になるところです。音楽が好きなので、もしかしたら鈴虫であったかもしれません。もちろん、蝉であったかもしれませんが。

しかし残念ながら、前世を振り返ることはできません。記憶というものは、おそらく命にとってはそれほど重要ではないのでしょう。業は蓄積されているのですが、それは閲覧可能な状態にはありません。しかも記憶というものは曖昧で、私たちの願望が都合よく反映されることもしばしばです。いわゆる「思い出補正」されていることは、よくあることです。記憶は完全なデータというわけではないので、現世を生きる上で前世の記憶を残しておく意味はないと言えます。ただし、もちろん転生によってすべてが消え去るわけではなく、自分のしてきたことは業として残るので安心です。

このように仏教ではサッパリとした考えを持っています。ジメジメしてはいません。ジメジメと言えば幽霊ですが、どうも今までの話のなかで幽霊が出て来そうな部分はないように思えます。幽霊は昔からとても身近な存在なのですが、仏教の理論からすると縁遠い存在になってしまうのです。でも、面白いですよね、昔からお坊さんが幽霊を成仏させるという話は多くありますし、仏教と幽霊は関係が深いのも確かなのです。

結論から言いますと、幽霊の存在背景というものは怨みや妬みが中心となっているわけなので、これは私たちの煩悩そのものです。つまり、幽霊は自分の心を見ているようなものなのです。怨まれ妬まれているかもしれないという恐怖、そして自分自身も人を怨み妬んでいるという心のあり方が、幽霊となって眼前に現れるのでしょう。そもそも仏教では、自らの業の発動によって出現した世界を自らが見ていると考えますので、この意味においては、幽霊はちゃんと存在することになります。人がたくさんいて、全員が同時に同じように幽霊を見たという話があまりないことからも、おそらく個人的に眺めているものが幽霊なのだと言えそうです。

ただし、エラーするということもあるのではないかと、最近は考えています。即座に補正されるのでしょうが、宇宙はエラーと補正で成り立っているという側面もあろうかと思います。転生だってエラーすることもあるでしょう。死を迎えて業が発動するとき、何らかの間違いで部分的に何かが現世に残ってしまうこともあるかもしれません。それをたまたま誰かが見たのが幽霊と言えなくもない。補正されるので即座に消えるのかもしれませんが、そこでお坊さん登場となっていたのかも。

本当のところを知ることはできませんが、幽霊話がたくさん残されていることを考慮しますと、それだけ人には怨みや妬みの心があるということが分かると同時に、人の思考を超えたシステムのダイナミズムのなかに私があると感ぜずにはいられません。何事も知りたくなるのが人の性ではありますが、そっとしておくのが風情というものでしょう。

のこす記憶.com
https://nokosukioku.com/note/?page_id=33

posted by 伊東昌彦 at 08:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge