2021年12月01日

親鸞聖人御消息第十八

「詮なきこと、論じごとをのみ申しあはれて候ふぞかし、よくよくつつしむべきことなり。」

今回のご讃題には、「意味のない議論ばかりをしておられるようですが、それはくれぐれも気をつけなければならないことです。」とございます。屁理屈好きの私としましては、まことに身にしみる親鸞聖人のお示しです。近ごろは「論破する」という言葉も普通に見られるようになり、相手を言い負かすことに重きが置かれるような風潮さえ感じます。議論することは価値あることですが、議論のための議論になってしまっては意味がありません。たとえば野球ということにおいて、ピッチャーが大事なのか、はたまたバッターが大事なのか、それを議論しているようなものです。

あたり前ですが野球はゲームであり、ピッチャーとバッターのどちらか一方だけでは成り立ちません。この議論には何の意味もなく、相手を言い負かすことが議論の目的となってしまいます。屁理屈好きの私からしますと、ピッチャーが投げなければゲームが始まらないのだから、当然ピッチャーが大事だと言い出しそうです。ルールブックにもそう書いてあるとも言いそうですが、それはゲームの流れでしかありません。どちらが大事かということへの結論になっていないので、単なる屁理屈だと言えるわけです。そして、野球が本当に好きなのであれば、そもそもこんな馬鹿げた論争はしないものです。大事なことはゲームが成り立つことであり、ポジションの優劣論争は問題外です。

さて、本御消息はお念仏の一念と多念とにおける議論について、親鸞聖人のお考えがはっきりと示されたものです。往生浄土のためには、お念仏は一回で良いというのが一念、そうではなくより多く回数を必要とするのが多念です。お念仏申すとき、誰しも何回申せば良いのか考えたことがあるでしょう。一回じゃ少ないような気もするし、かと言って多ければ良いとは聞いていない。世間での評価や習慣からしますと、回数が成果に関係しそうな気はしてくるのですが、どうもはっきりしません。しかし実のところ、私たちの往生浄土は阿弥陀如来の本願力によって成就されているので、回数が問題というわけではないのです。

自分の修行の成果として往生浄土が得られるのであれば、多いほうが良さそうです。しかし、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているので、私自身の成果は何も反映されていません。つまり、一念・多念の論争が起きてしまうこと自体、野球のピッチャー・バッター論争と同じように本質から大きくそれてしまっているのです。まさに「詮なきこと」、深く詮索しても意味のないことなのです。往生浄土を自分の成果とする誤った考えがあるから、成果につながる回数を問題にし、無意味な争いに終始してしまうのでしょう。繰り返しになりますが、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているということ、しっかりと心しておきたいものです。

(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)

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2021年11月10日

地球を救え?

温暖化防止は人類規模での課題ですが、「地球を救え」という掛け声には違和感を覚えます。私はもちろん門外漢ですが、多少温暖化しても地球自体が壊れることはないでしょう。おそらく何ともない。地球の歴史を振り返れば分かります。この掛け声は「天体」としての意味ではなく、「生命にとっての地球環境」を指しているのでしょう。

私も温暖化は進まないほうが良いと思っていますが、この課題は地球ではなく、人類の課題なんだという点には注意を払っていきたいと考えます。あくまでも人類中心の視点です。他の生命にとっても重要ですが、人類が存続できれば他の生命も現状存続できます。

人類の行動で他の生命の存続を脅かしていることは問題ですが、もし仮にこうした行動も地球規模での淘汰であるとするならば、私たち人類には防ぎようのないことかもしれません。人類は進化して欲望を増大させています。欲望が温暖化を招いており、これは言い換えれば進化による温暖化促進です。

人類に知恵があるならば、自分たちの進化の方向性を変えなければ淘汰されることでしょう。そのためにはまず「少欲知足」です。仏教で「欲少なくして足るを知る」という意味で、多少不便でもいいじゃないかという心掛けから始まります。

人類を救うヒントは人類自身が見出しています。宗教・哲学・歴史から学ぶことはまだまだ多くあり、むしろこれから必要です。先人が遺した叡智を大人たちが学び直し、それを次世代へ伝えていくべきかと思います。

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2021年11月02日

国語は総合的かつ基礎的な科目

また電車で通り魔事件が起きました。電車は密閉された公共ですのでよく考えれば危険は多い。幼少からあまり気にせず乗車していましたが、それは公共の安全が一定程度の水準で保持されていたからですね。日本人はこの公共という意味合いについて、再確認したほうが良いかもしれません。

ところで犯人ですが、こうした輩は小学校のころどんな勉強をしてきたのかなあ。不遇であったのか事情は分かりませんが、国語の教科書を読んで勉強したことはあるでしょう。その中には物語もたくさんあったはずです。小学校の国語は総合的な科目です。物語の登場人物を通して道徳を学ぶことも出来ます。

名作と言われる物語には、多く人間同士のトラブルが描かれています。教科書には名作が多く掲載されています。小学校は人間教育の基礎だと私は思います。中学も高校も人間教育の場でしょう。教科勉強だけではありません。学校の先生には、人間教育をしているんだという矜持をさらに持ってもらいたいなあ。

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2021年10月26日

親鸞聖人御消息第十五通

「かならずかならずまゐりあふべく候へば、申すにおよばず候ふ」

本御消息は門弟の往生浄土を知らせた高田入道へのご返信で、往生についての親鸞聖人のお気持ちが率直に語られています。阿弥陀如来から信心をいただいた私たちが、誰しも浄土へ参らせていただき、必ず仏に成らせていただくのが親鸞聖人の教えです。「かならずかならずまゐりあふべく」とのお示しは、必ず私たちも参らせていただくということです。そこに疑いをはさむ余地はありません。しかし本当にそうなのかなと、幾度となく思ってしまいます。私のような行動や考えでは、まったく往生できそうにないからです。

往生浄土については、古来その様子を伝える様々な「往生伝」が作られました。たとえば七高僧のひとり、平安時代の源信和尚(かしょう)の往生は次のように伝わります(現代語訳は大阪大谷大学教授の梯信暁先生によります)。源信和尚が亡くなられたあと、同門の僧侶が夢(・)で(・)和尚に出遇った際、往生の可否を直接聞いてみたとのことです。すると和尚からは、「往生できたとも、できなかったも言える」という返答がありました。しかし「極楽の聖衆が仏を取り囲んでいる時、自分はその最も外側にいた」とも答えられたそうなので、おそらく往生されたのでしょう。明快とは言い難い表現ではあります。

これはどういうことかと言いますと、さらに源信和尚は「そもそも極楽に生まれることは極難のことなのだ」と付け加えられたそうです。平安時代において、極楽浄土への往生は容易ではないという認識のあったことを窺わせます。学術的に申し上げますと、以上は源信和尚の言葉ではなく、あくまでも周囲の方々の言葉になります。たしかに自力修行による往生浄土は極めて難儀なことですが、和尚は修行を重んじながらも、ご自身はお念仏による他力往生を目指されていました。自力に依存していれば、往生自体が難しく、ちょっとの修行では地獄へ落ちてしまうこと必定です。

自分自身の行動や考えに依存していますと、往生浄土は出来ないでしょう。源信和尚でさえ周囲からは曖昧に見られていたわけです。しかし、親鸞聖人は冒頭に引いた言葉に続けて、「申すにおよばず」とお示し下さいます。往生浄土について、何か議論したりすることは何もないと言われるのです。阿弥陀如来にまかせ切るからこそ、申すことは何もないのです。自力を頼りにしているのであれば、修行について議論すべきでしょう。申すことも多くなりそうです。そうではなく、こうした私たちをそのままお救い下さるのが阿弥陀如来です。親鸞聖人のお言葉は、まさに明快そのものであると言えましょう。

(本文は『やさしい法話』6月号へ寄稿したものです)

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2021年10月14日

伝統という言葉に潜む実態

伝統って何なんでしょう。すごく抽象的で分かりにくい。もう少し具体的に、日本の伝統とは。さらに分かりにくい。では、わが家の伝統となりますと、う〜む、教育を大事にするところ・・・、と思いつきましたが、これは単に父親の考えで、それを私が継承しただけかなあ。父方の祖父祖母も同じ考えだったかもしれませんが、直接聞いたことがないので本人たちの考えまでは分かりません。つまり、わが家の伝統だと感じつつも、ひも解いてみればせいぜい2代〜3代前のことであったわけで、年月としては案外浅そうです。

わが家のことは置いておきまして、では日本の伝統となるとどうでしょう。日本の歴史は長そうですし、そもそも国家なのでわが家よりも伝統が具体化していそうです。日本の伝統を大切に、という言葉も巷にはあふれかえっています。でも、ひと言では言い表せません。伝統芸能とか伝統工芸とか、政治とか宗教とか様々ありますが、1つ言えることは、いずれもどこかの時代で誰かが何かしら「まとめ」ている事柄を、現代人は伝統だと感じているということです。これはわが家の場合と同じです。

私たちが伝統だと感じている事柄には、由来のよく分からない自然発生的な要素も含まれますが、構成は異なります。構成は誰かがこしらえているのです。たとえば神話を伝統とするならば、神話は語り継がれた要素を含んでいるものですが、どこかで誰かがまとめているから神話となって今に伝わっています。当然、まとめた人の主観、敢えて言えば思惑が入って構成されています。いらないと感じた要素は切り捨てられています。それを後代の私たちは伝統だと思い込んでいるわけです。伝統という言葉は便利なものですが、意外と要注意だと私は思っています。

posted by 伊東昌彦 at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii