2024年02月29日

宗教的な発想

この世のあり様は、すべて「諸行無常」が真理です。移り変わりの世界であって、固定的であることはなく、それぞれの物事が互いに関係し合いながら、それぞれ別々に変化していきます。仏教ではそう考えています。真理とは普遍的なものであり、どこかに真理が存在しているということではなく、正しいものの見方をすれば真理は自から認識可能です。

ところで仏教は宗教です。生死を語ること、とりわけ死後を語る。真理とその普遍性を語る。この2点だけでも完全に宗教です。死後なんて宗教じゃないと語れませんし、真理と言いましても、もしかしたら普遍的ではないかもしれません。いずれも立証は今のところ不可能ですので、これを説くことこそ宗教の醍醐味です。仏教においては、真理の顕現もしくは具象化が「仏」であり、仏と成る、すなわち成仏することは真理に到達することを指しています。仏像は真理の象徴であり、実践者が目指すゴールでもあります。

裏を返せば、こうした事柄を言い出す思想というのは、宗教とまでは言い切れなくとも、宗教性をかなり帯びていると言って間違いありません。哲学がそうです。東西を問わず、哲学のなかにはかなり宗教へ近づいたものもあります。西洋哲学は合理性のイメージが強いかもしれませんが、キリスト教と相互に影響を受けている面もあるようです。

ちなみに倫理というものは道徳や規範であり、人と人との間での事柄に限定されます。哲学も人の理性によっているのでその点で倫理と通じてはいますが、哲学は人の存在について根本的原理を探る営みかと思いますので、やっている事は違います。倫とは仲間のことです。倫理に普遍性はありません。限定されたなかでの道徳や規範になります。

いずれにしましても、普遍性ということを説きだすと宗教的になりがちです。そもそも、何らかの思想というものに普遍性があるのかどうかは、よく考えたら誰も分からないことであり、創唱者がそうだと説いて、それに賛同する人がいれば、まあ、そこではそうなんだろうなあということに過ぎません。信じるか信じないかの問題です。

世間には宗教とは言えなくとも、宗教的な発想はいくらでもあります。大切なことは、どんな思想であっても、一方的に信じ込まないことです。私は坊さんなので基本的には仏教思想を信じていますが、経論のなかにはいくらでもいい加減な表記はあります。肝腎なことは、正しいものの見方です。極めて難しいことではありますが、出来るだけそれに努めることで、生き方は随分と自由になってくると思います。信じ込むということは、自由を犠牲にすることでもあるからです。


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2024年02月16日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

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何事も「聞・思・修」

少なくとも地球というまとまりにおいて、本来、生命は好きなように生きていい。常識や規則があるのは人だけ。ペットであっても好きに生きていい。そもそもペットになるのは人の支配下に置かれたからで、生存のための強弱では弱いから。

ただし、何事も自業自得。言い換えれば、自分の行為とその影響の結果は、自分で引き受けねばならない。我慢する必要はないけれど、好きなように生きたことの結果は、ちゃんと自分で責任持たないといけない。生きるということは冷酷なことなのだ。人のなかに常識や規則が作られたのは、出来れば悲惨な結果を避けたいという本能からだろう。冷酷な現実は耐え難いものだ。しかし常識や規則はすべて人に適合するほど万能ではない。これもやはり、強い存在によって設定されている。

仏教の考えにおいて、「生まれ」は今の自分ではどうにもならない。それは先天的な業(行為とその影響)によるものであるから、今の自分ではなく、過去の自分(→今、業は引き継ぐが人格は異なる)の業の結果だから。しかし、今、どう生きるのかは、今の自分で決めていい。もちろん思い通りにならないことも多いが、方針を決めるのは今の自分でいい。好きに生きていいのだ。

お釈迦様も説かれた。生まれでバラモン(→インドの伝統的宗教家で、身分的に最上位)になるのではなく、生き方によってバラモンになるのだと。

たとえば身体的な先天的性別を変えたいのであれば、可能なかぎり努力してもいい。ただし、性別変更という行為と、その影響から来る結果は、すべて自分で責任をもって引き受けねばならない。影響は個人的にも社会的にも色々とあることだろう。「後始末はよろしく」、ではダメだ。引き受けるほどの覚悟がないのであれば、別の方法を考えなければならない。自分の行為とその影響は、周囲に良く思われることもあれば、悪く思われることもある。そのすべての結果は自分が引き受ける。

何事も「聞・思・修」と言って、まず聞く、そして自分で考える、それから行動へ移す。考えなしに生きていけるほど、生命というものは緩くはなさそう。


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2024年01月29日

大切に思う人、思われている人がいる

すこしでも想像してみれば、ある程度は分かるはず。すべての人にはそれぞれの人生があり、大切に思う人、思われている人がいる。命は個々で歩むものであると同時に、縁によって結ばれて互いに影響し合いながら存在している。自分の今までの歩みを振り返って見ても、これは比較的容易に分かるはず。

自分の欲望や都合、慢心した理想によって、勝手に他者を殺傷することは悪業だ。これは現世において報いを受ける因となるのみならず、来世における命のあり方を直接決定する因となる。簡単に言えば、そういう悪業を自分自身に植え付けてしまうと、来世は地獄という命のあり方になる。地獄に落ちると表現されるが、むしろ自分自身の心が地獄なのだ。だから地獄に落ちる。

もちろん、その悪業を消し去ることは可能だ。無限とも言える期間、地獄の苦しみを受け続ければ、いつかは悪業は消える。無限とも言える期間になることは間違いないけどね。現世においても過ちに早々に気づき、真摯にその悪業に向き合い、悪業が花開かずいつか消滅するかのような大きな善業を自分自身に植え付けることが出来れば、もしかしたら地獄行きは逃れることが出来るかもしれない。

でも、そんなことにならないよう、すこしでも想像してみることが大切だ。想像が苦手であっても、他者だって自分と同じように生きているし、大切に思う人、思われている人がいると知ってほしい。他者を殺傷することは、その人が大切に思う人、思われている人の命をも傷つけることになる。だから、悪業が極めて大きい。

地獄の閻魔様は、こうした悪業の象徴なのだ。決して逃れることが出来ない。決して許されることがない。それほど厳しく、冷徹なものが悪業だ。私はそんな地獄に落ちたくないので、出来るだけ他者のことを想像し、思うことにしている。せこい欲望も都合も理想もあるけれども、他者を殺傷してまで押し通す価値なんてまるでないね。それを肯定するような本も世にはあるが、読む価値は絶対にない。


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2024年01月23日

多様性ということ

仏教は個人宗教なのでいつでも仏様と私の一対一です。皆が一色に染まりましょう、ということはありません。私は私の色のままでいい。仏様がそれに合わせてくださいます。それぞれが別々な色を放つのは当たり前のことです。なぜならば、私たちの業(行為とその影響)というものは、他者からの影響も受けるとはいえ個人的なものだからです。私たちは自業自得のなかで生きており、善いことも悪いこともすべて自分に付着します。他者と同一になることはあり得ないのです。仏様はそんな私たちそれぞれに合わせ、はたらきかけてくださいます。あなたのままでいいのです。

こうした考えは、まさに現代的な多様性を認め合う考えに合致します。色々な性格、色々な生い立ち、色々な人種、同一なんてことはあり得ません。日本人の宗教観、もう少し広く言えば感性というものは、まさに多様性を認め合うものです。神仏もたくさんいらっしゃるでしょう。何でも色々なのです。違っても衝突しません。皆が同じ方向を向けという時代も一時的にはありましたが、長続きはしていません。

ただ、これは勝手を容認しているわけではないのです。多様性を認め合うと同時に、それらが調和していないと居心地が悪い。和を重んじるのが私たちの感性でもあります。『無量寿経』には「風吹きて、華を散らして、仏土に遍満す。色の次第に随ひて雑乱せず」と説かれます。色々な華が風に吹かれて絨毯のようになっても、それぞれの色が勝手に雑多にあることはない、ということです。色はそれぞれであっても、ちゃんと調和している状態が理想的です。

多様性と和は、私たち日本人が長年に渡って大切にしてきた感性です。日本人は意外と自分たちのことを知りません。外国の方と交流を深めるためには、まず自分たちが自分たちのことを知らなければ、実は相手のことをしっかり知ることもできません。単なる迎合は交流とは言えないからです。

日本の国際化というものは、多様性と和によってもたらされると私は思います。


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2024年01月13日

生死こそ、一大事

新年早々にインフルエンザ感染しまして、年末のコロナ感染に引き続き、不甲斐なく臥せっておりました。インフルエンザは本当に何年ぶりかなという具合です。感染防止も意識が薄らぎ、周囲の状況への注意も怠っていたと思います。今一度、自覚をもって日常を送りたいと思います。

今年は元旦から災害事故が続いております。対岸の火事ではなく、他でもない自分自身における生死の問題として、真摯に受け止めていきたいと思っています。生死こそが一大事であり、それ以上のことはありません。しかし、私たちは普段、この一大事を先送りして生きています。生きることは死ぬことです。ちゃんと自分事として考えていきたいと思います。 合掌


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2024年01月02日

箱根駅伝、学生たちの健闘を念じます

今日は箱根駅伝ですね。神奈川県の人には馴染み深いかなと思います。私も幼い頃から父がテレビ観戦していたのを思い出します。かつてはコース上にある箱根登山鉄道の踏み切りが閉まってしまったりと、ハラハラして観戦したものです。檀家さんには実際、選手として走った方もいて、やはり土地柄なのか盛り上がります。


ただ、最近の過度とも思えるエンタメ化には、やや違和感を覚えてしまいます。私の頭が固いのは承知の上なのですが、学生スポーツは教育の一環です。結果的に大学の宣伝にはなりますが、それが目的になってしまうと本末転倒。学生は宣伝の駒ではありません。学生の本分は、あくまでも学業です。

少子化のなか、大学はどこも生き残りをかけて懸命であるのは理解できます。しかし、大学は学問を通じての人間形成、さらに言えば社会に有為な人材を育てることが使命です。エンタメ化した学生スポーツのなかで学生が育つことに、大学生であることの意味を感じることが出来ません。

敢えて言えば、大学でやらなくてもいいじゃんと。エンタメしたいんだったら、別のとこでやりなよ。学生スポーツは「演出」で感動するわけではないでしょう。

私立大学であっても国から助成金を受けています。エンタメ化した学生スポーツで宣伝し、大学が「商売」をするために助成があるわけではありません。履き違えている経営陣が多いように感じます。だから問題が発生するんじゃないかなあ。これは宗教法人であっても同じで、税制面の優遇を受けることの意義を住職は真摯に捉える義務があります。

そもそも会社法人以外、すべての法人は「商売」が主目的じゃないだろ。定款や寺則に書いてある。どんな法人でも商業的側面があるのは否定しないし、そうでなければ運営できない。しかし、「目的」は別にある。スポーツ推薦の学生であっても、ちゃんと厳しく進級審査するのがあたり前。入試のハードルは一般入試と異なっても、同じ大学生なんだから扱いは同じじゃないと、実はその学生のためにならない。学業していないのに社会に出したらいかんでしょ。

ちなみに、私は駅伝が好きなので複雑な思いなのですが、昨今、日本の陸上競技、とりわけ中長距離が振るわないのは、高校生や大学生が駅伝を花形だと思って集中しすぎるからなのでは。駅伝は日本独自の種目のようですし、今のような過度な箱根駅伝エンタメ化が、世界で活躍できる選手を少なくしているような気がしてなりません。まあ、これは色々な方も仰っていることなのですが、個人的にもそう思えます。

そして、これは甲子園も同じでしょう。甲子園で投げすぎると肩を壊すとは昔から言われています。甲子園も過度のエンタメ化です。批判ではありませんが、出場校に公立高校が減ってきているのは、それを如実に示していますね。私立高校の宣伝の場です。出場している高校の母体は、意外と巨大な学校法人だったりします。盛り上がれば何でもアリというエンタメ路線は、主体であるはずの高校生や学生のためになっているのか、大人はちゃんと考えないといけない。


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