2018年04月09日

無思考な思想は危険だ

3月〜4月は毎年慌ただしく、何となくダーっと日々経過していきます。そんな中で気になった報道と言えば、大相撲巡業での出来事です。女性は土俵から降りてくださいの件です。私は日本古来の思想には疎いのですが、これは元をたどれば「穢れ思想」に行きつくかと思います。穢れの原因と言えば、まずは「死」ということでしょうか。それから血ということで月経も対象でしょう。月経は女性の生理現象ですので、つまり「=女性」につながっていくのかと思います。

坊さんには無関係のように思う人もいるかもしれませんが、かつては坊さんは葬儀をしていませんでした。正しく言いますと、神事に出勤する立場にある官僧(→公務員の坊さん)です。平安時代までは基本的には官僧がほとんどで、私度僧(→民間の坊さん)が増えたのは鎌倉時代になってからかと思います。神事は「死」などの穢れを避ける伝統なので、官僧は神事に備えて穢れの原因になる物事には近づかないようにしていたわけです。葬儀をするようになったのは、はじめは半僧半俗のような私度僧であったり、または既存の枠組みから外れた律宗や念仏宗や禅宗の坊さんであったようです。

穢れ思想は日本固有のものではなく、多分、大陸経由からもたらされたものかと思います。その辺の事情はちょっと分かりませんが、インド仏教にも穢れ思想のようなものはあります。たとえば、女性が成仏するためには、まず男性にならなければならないとか、何だか意味が分かりませんが、とにかく経典にはそういう表記が存在します。今でも世界のほとんどは男性中心のあり方ですし、それが2000年ほど前のことと言えば、まあ、なおさらのことなんじゃないかと思います。男性のほうが女性よりも一般的に体力で勝りますし、単純にそういう状況から男性優位になったのは容易に想像が出来ます。そして、人は「死」を恐れるわけで、それとは逆の「生」についても恐れを抱いていたことでしょう。赤ちゃんが生まれてくることなんて、普通に考えてとても不思議なことです。男性からはもちろん、女性であっても命の誕生は不思議に思われることでしょう。男性による生に直接関与する女性への恐れというものが、女性蔑視につながっていったのかもしれません。男性は基本的に女性より小心なので。

いずれにしましても、女性を穢れの原因とみる考え方は日本古来より存在し、それがどうやら公益財団法人日本相撲協会にも受け継がれているようなのです。思想というものは、その時代の人の営みを反映しているものなので、歴史的文化的にも極めて貴重なものです。また、思想は浸透性と継続性を持っているので、昔の思想であっても現代まで影響が及んでいることもあり、現代社会を見つめる上で看過できません。しかし、思想はあくまでも人の営みであるので、人なくして存在意義はまるでありません。人を超えて存在する思想なんてないと私は個人的に思います。これは当然のことながら仏教思想もそうで、人がいなければ仏教なんてどうでもいいことなのです。引いて言えば、人の命に勝る存在意義がある思想なんてあるわけない。もしあるなんて言うならば、それは個人的に勝手に思っていれば良いわけで、他人に押しつけてはいけないことです。

昔からある伝統思想というものは、無思考で継続させられてきたものもあるでしょう。仏教も伝統思想の1つではありますが、少なくとも日本仏教は無思考ではないと私は思います。今、上記のような女性が男性になってから成仏するとか、そんな意味不明なことを言う日本の坊さんはいないでしょう。いて欲しくありません。こうした考えは仏教思想の根幹でも何でもないので、今、必要なければ取り上げる必要はまったくありません。ただし、経典編纂者が土着的な思想を取り上げたから存在するのでしょうが、仏教的にはまったくの間違いであったと認識する必要はあります。無視して良いということではありません。

相撲協会も伝統とか言うのであれば、ちゃんと自分たちで思考しないといけないなあ。無思考の思想というものは非常に危険だということ、私たちは歴史において知っているはずです。

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2018年03月23日

タミヤの電動ラジコン

かつて小学校5年〜6年ぐらいのころ、ラジコンにはまった時期がありました。タミヤのフォックス、京商のギャロップMK2、そして、ほぼ誰も知らないニチモのペガサスエクシード。中1の夏頃から、不思議と波が引くようにマイブームは去っていきました。ペガサスは同級生に売ってしまった。箱だけまだ存在。10代の頃のブームってのは不思議なもんですよね。異様にはまったのに、何だったんだというのが多い。

最近、タミヤから復刻版が出ていることを知り、息子のためと言って購入してしまいました。ホットショットは長男で、フォックス(ノバフォックス)は次男です。長男には最初ホーネットを買いましたが、ちょっと物足りないようだったのでホットショット。

なお、制作はほとんど長男で次男はちょっと、塗装のみ私でした。

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2018年03月18日

自戒の念を込めまして

昨今、お葬式についての考え方や、そもそものあり方について、随分と変化があると言われています。私も実際、そう感じることがあります。お葬式というものは、もともとは商業的なものではなく、地域で互助的に成り立ち、そこに宗教者である坊さんが主として関わってきました。今はその互助的であった部分が機能しなくなり、多くを葬儀社が担っています。たとえば、善福寺の周辺では「墓掘り」と呼ばれる役回りがありまして、これはかつて土葬の時代、実際に穴を掘っていた役の方々です。私の知るかぎり火葬の現代におきましても、お墓のカロートを開けて納骨をする役を担ってこられました。しかし、徐々にその役は葬儀社の社員さんに代わっていきまして、今では役名だけが残されています。

会社勤めの方が多くなり、さらに分業が進んだことによりまして、葬儀社の存在はお葬式において欠かせないものとなっています。私もお葬式においては、一緒にご供養をしているという感覚です。葬儀全般に精通されているのはもちろんのこと、ご遺族と直接接する時間も多く、何かと頼りになる存在です。ただ、お葬式の窓口が葬儀社だけになってしまい、失礼ながら会社の都合でお葬式の内容が左右されることもあり、ご供養が置いてけぼりになってしまうケースも見受けられます。葬儀社は会社法人ですので、宗教法人のように税制面で優遇されているわけではありません。利益を出して納税し、安定的に経営をしていかねばなりません。時には自己都合に走ってしまうこともあるということ、経営者として理解できないことではありません。住職も実は法人経営者だからです。

ただし、葬儀社はあくまでもお葬式をサポートしているだけなので、ご供養の主体はご遺族であり宗教者でなければ意味がありません。とりわけ宗教者である坊さんは、お葬式という宗教行為を司っているわけなので、葬儀社とともに取り組んではいても、宗教行為は自分たちが主導するという強い自負心を持っていなければ困ります。もし葬儀社に暴走気味なところがあれば、それに歯止めをかけることができるのは、お葬式が宗教行為である以上、寺院や坊さんしかいないからです。

これは学校と受験対策の進学塾の関係に似ているところがあります。学校は寺院で、塾は葬儀社だと考えることができるでしょう。入試のある学校に入学したいのであっても、必ず塾が必要というわけではありません。自分で勉強できれば、それで事足りるからです。かつてのお葬式も、地域の互助で成り立っていましたので、葬儀社は不要でした。ただ、時代とともに必要になってきた。塾も同じです。さらに学校側から見ましても、塾は今、不要だとは言い切れない存在でしょう。難しい入試問題を出す学校は、そのレベルに受験生を引き上げてくれる塾がなければ、欲しいと思う学生や生徒が集まりません。また、中高では在校生に対しても、学校の勉強だけで大学入試に対応できるかと言えば、あまり自信がないというのが本音ではないでしょうか。寺院でありましても、葬儀社がいなければ、お葬式をしっかり取り仕切れるのかどうか、はっきり言って私にはまったく自信がありません。

塾と学校は同じく教育に関係していますが、その目的は大いに異なります。葬儀社と寺院も同じくお葬式に関係していますが、当然のことながら、目的はまったく異なっています。だからこそ相互に必要な存在なのであり、学校であっても寺院であっても、ちゃんとここら辺のことを理解していないと問題です。一番問題なのは、塾と特定の学校とが業務提携をし、塾がその学校の内容よりも、提携を優先して塾生を大量に送り込むような誘導をしたり、また、葬儀社と同じく特定の寺院や坊さんとが業務提携し、葬儀社が自社の都合でお葬式を取り仕切ることがまかり通ってしまうことです。業務提携をしてはいけないということではなく、互いに自分たちの都合や利益を最優先させていることが問題なのです。学生や生徒や保護者、そして門信徒をないがしろにしている実態があることが問題で、自分たちの責務を忘れてしまっているのでしょう。

寺院、坊さんという存在は、商業的な側面もあって成り立っているものですが、本来の目的は商業ではありません。商業化している寺院や坊さんに対して、世間は冷笑しているということ、早めに気づいていかないとならないはずです。自戒の念を込めまして、お葬式には毎回気を引き締めて臨みたいと思います。
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2018年03月10日

ずいぶんと頭のかたい幽霊話

以前もアップした原稿ですが、関連するもの3本をくっつけてみました。今月25日(日)に築地本願寺でちょっとだけ話をする機会があるので、その叩き台にしようかと思っています。


「幽霊と出会ったら ‐びっくりしない心構え‐」


前世と来世 ‐輪廻‐

今日は仏教から見た幽霊の話をしたいと思います。オカルト的なものではなく、仏教の経典や論書にその根源を訪ねてみます。はじめに、輪廻の話を少しいたしましょう。

よく簡単に前世や来世と言いますが、私どもの思惟を超えている事柄であることは間違いないでしょう。私との関係に測定可能な質量があるわけでもなさそうですし、実証することは不可能としか言いようがないからです。しかし、気になります。私はどこから来て、そして、どこへ行くのでしょうか?

仏教ではこうした実証不可能な心配事の解決策として、まずは思惟しないという方策を取ってきました。日常的な心配事の解決を優先するわけです。有名な「毒箭(矢)のたとえ」では、もし体に毒矢が刺さったならば、そのままの状態で毒矢の分析をするよりも、まずは抜いて治療を優先させよと説きます。つまり、今すぐに解決すべきことは前世や来世のことではなく、まずは日頃の思い煩いの除去に努めよと言うのです。

そうは言いましても、やはり生老病死の四苦とも言いますし、生死に関することは最も気になることでもあります。仏教はこの実証不可能な事柄について、様々な思い煩いを分析するなかで、1つの結論に到達いたしました。

インドには古くから「業」(ごう)という考え方がありまして、人の存在は「その人の行為やその影響」(=業)によって決まるとされます。仏教ではこの業は心に蓄積され、その発動によって、生まれる世界が決まるのではないかと考えたのです。業の考え方と心の存在を結びつけたわけです。

業とは今に言う「データ」であり、業によって心は成り立っています。そして、その心にさらに業が蓄積されていくのです。心は業に基づいた世界を現象させ、現世という今を私たちに見せているのです。きわめて単純化しますと、悪業によって悪なる世界が現象され、善業によって善なる世界が現象されます。つまり、世界は心によって成り立っているわけであり、地獄に落ちるというのは、悪業によって地獄世界が現象されるということを意味します。

私たちは「私」を主体的に考えがちですが、業こそが「私」としてのステージを作り出しているのであり、私とはそのステージを生きる「意識」に過ぎません。そうであるならば、前世や前々世といった過去にこそ私の原因はあり、さらに言えば、来世を現象させる業には今の私も含まれていきます。私の行為やその影響も原因となって来世は決まってくるのです。私という「意識」が続いていくのかと言えば、それは業として継続していくのでしょうが、こうした業の繰り返しを続けている限り、そのステージに適合した意識が発動されるのだと考えられます。この繰り返しを「輪廻」と言うのです。ただし、仏教はこの輪廻から解脱する方法を究明します。 

前世と来世 ‐解脱‐

迷いの世界を生きている私たちは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を輪廻していると言われます。天でありましても、そこには快楽しかなく、やはり迷いから脱することが出来ていません。自分を顧みることがなければ、迷いの原因たる欲望を減らすこともままなりません。快楽ばかりでは、こうした機会を得ることは難しいでしょう。自らの際限なき欲望が苦悩を増やすわけですが、その因果関係に気づいていかなければ、結局は迷いの連鎖を断ち切ることが出来ないと言うのです。

しかしながら、自分のすがたを知るということは容易なことではありません。他者に嘘をつかないようにしても、無意識のうちに、自らに対して嘘をついてしまっていることありましょう。社会生活を送るなかにおいて、いつの間にか、自分にとっての理想的な自分を作り上げてしまっていることもあるようです。その虚構を守るため他者に攻撃的になり、対人関係において不具合を生じさせることもしばしばです。自分を知るということは、意外にも難しいことではないでしょうか。

仏教の修行者たちは、自らの心を瞑想によって観察してきました。どこに迷いの根源があるのか突き止めようとしたわけです。迷いを根絶することによって真理に通達し、転じて智慧を獲得することができます。智慧の獲得は業の蓄積と発動を停止し、それによって輪廻からの解脱が達成されます。それが覚るということであり、仏を覚者とも言う所以です。智慧は世俗的な知恵とは異なり、先入観なくして物事を即座にあるがまま認識する作用です。虚構はすべて打ち払われます。サラッと言いましたが、実際、こうした修行は極めて難しいことです。

前世と来世 ‐他力‐

仏教の歴史は2500年もあります。解脱の方法も様々に考案されました。日本にも宗派がたくさんありますが、違いはその方法に基づいているとも言えます。お釈迦様は瞑想によって解脱されましたので、瞑想するということが基本的な方法になります。しかし、瞑想というものは短時間ではあまり成果がなく、ある程度の長さと繰り返しが必要です。人にとりまして、同じことの繰り返しというのは面白いとは言い難いでしょう。スポーツ選手は練習を繰り返すわけですが、かなりの忍耐が必要なことは言うまでもありません。仏教でも忍耐は瞑想とともに修行の重要事項になっています。

念仏でありましても、たとえば何万回もとなえるという話もあります。たしかに念仏は短時間でどこでも出来るものですが、何万となると大変です。なぜ何万回という数字になるのかと言えば、これもやはり忍耐というものが課せられているからでしょう。それだけ頑張ったということなのだと思います。しかし、頑張れない場合はどうなるのでしょうか?

皆が等しく頑張れるのであれば、そもそも宗教なんて必要ありません。宗教の本質というものは、「頑張れない場合はどうしましょう?」というところ、つまり、人の本来持つ弱さを包み隠さぬところに由来します。勉強と同じことで、クラスの皆が等しく優秀であるならば先生は必要ありません。小中高の先生にとって大事なことは、クラスのなかの落ちこぼれを引き上げていくことでしょう。先生は多様な方法を示して生徒を導く存在です。仏教で言えばお釈迦様。お釈迦様は私たちの弱さを見抜かれ、たくさんの経典(説法)を残されました。出来の悪い生徒でも歩んでいけるような方法も含まれています。

その経典の1つに『無量寿経』というものがあります。簡単に言いますと、阿弥陀如来が上記のようなあまり頑張れない人々を救いとるという内容です。阿弥陀如来はお釈迦様のような先生という立場ではなく、むしろ母親のような存在です。こちらの出来具合の良し悪しに関わらず、むしろ出来の悪い私たちこそ救いの目当てとされるのです。このはたらきを他力と言います。

私たちは大海原で溺れかけているような存在です。実はそのまま力を抜けば浮かぶのですが、どうしても自分だけの力で何とかしようとするところがあります。阿弥陀如来はそんな私に対しまして、私が何をしようとも大海原のように大きく包んで下さいます。修行もままならず、死に向って恐れおののく私であっても、そのまま極楽浄土へ参らせていただけるのです。皆、母なる国土へ還っていくわけです。

宗教には救いが必要です。仏教は自分自身を厳しく観察することを要求すると同時に、こうした救いをテーマにもします。他力は解脱の方法の1つとして考えて良いものです。阿弥陀如来にすべてを任せるような思いに包まれるということは、言い換えるならば、真に自分自身の出来の悪さに気づかされたということでもありましょう。それでもなお、この世にいる限りは迷い続ける私たちですが、命尽きると同時に迷いも霧散し、解脱の境地に至ることが出来るというわけです。業の蓄積と発動は停止され、これ以上輪廻することもなくなります。この世での私という「意識」がどうなるのかは分かりませんが、おそらく大雑把に言えば、迷いの私ではない本来の私に還っていくのでしょう。それがどういうものなのかは、私には分かりません。いずれにしましても、他力によって生かされているのが私という存在であるようです。

幽霊はいるのでしょうか?

ここまで前世と来世のことに言及しましたが、皆さんはどちらに興味がおありでしょうか。前世でしょうか、それとも来世でしょうか。私ははじめ、来世のことのほうが心配でしたが、最近は前世の存在に関心があります。前世での行いにより、今こうして人として生かされていると思いますと、とても感慨深いものがあります。どれだけ輪廻してきたか分かりませんが、ようやく仏教、そして他力に出会うことができたわけですし、長い旅を続けてきたんだなあとしみじみ思います。前世は何をしていたのか、ちょっと気になるところです。音楽が好きなので、もしかしたら鈴虫であったかもしれません。もちろん、蝉であったかもしれませんが。

しかし残念ながら、前世を振り返ることはできません。記憶というものは、おそらく命にとってはそれほど重要ではないのでしょう。業は蓄積されているのですが、それは閲覧可能な状態にはありません。しかも記憶というものは曖昧で、私たちの願望が都合よく反映されることもしばしばです。いわゆる「思い出補正」されていることは、よくあることです。記憶は完全なデータというわけではないので、現世を生きる上で前世の記憶を残しておく意味はないと言えます。ただし、もちろん転生によってすべてが消え去るわけではなく、自分のしてきたことは業として残るので安心です。

このように仏教ではサッパリとした考えを持っています。ジメジメしてはいません。ジメジメと言えば幽霊ですが、どうも今までの話のなかで幽霊が出て来そうな部分はないように思えます。幽霊は昔からとても身近な存在なのですが、仏教の理論からすると縁遠い存在になってしまうのです。でも、面白いですよね、昔からお坊さんが幽霊を成仏させるという話は多くありますし、仏教と幽霊は関係が深いのも確かなのです。

結論から言いますと、幽霊の存在背景というものは怨みや妬み、そして何らかの心配事が中心となっているわけなので、これは私たちの煩悩そのものです。心配事であっても、これは何らかへの執着が原因となっているので、やはり煩悩に属していると言えます。つまり、幽霊は自分の心を見ているようなものなのです。怨まれ妬まれているかもしれないという恐怖、そして自分自身も人を怨み妬んでいるという心のあり方、または何らかへの執着心というものが、幽霊となって眼前に現れるのでしょう。そもそも仏教では、自らの業の発動によって出現した世界を自らが見ていると考えますので、この意味においては、幽霊はちゃんと存在することになります。人がたくさんいて、全員が同時に同じように幽霊を見たという話があまりないことからも、おそらく個人的に眺めているものが幽霊なのだと言えそうです。

なお、幽霊話というものには、必ずと言っていいほど尾ひれがついていると思います。ゾッとするように増幅されている。たとえば、いわゆる「成仏できない状態」にある幽霊が、「お〜い、お経でもあげて成仏させてくれ〜」と言わんばかりに出てくる。たいてい夕方から夜でしょう。あまり爽やかな午前中はない。まったく先入観なく、その場所に行って何かを感じるというのは、やはりどうも、都合の良い発想なんじゃないかと思います。先入観があるから見えるわけで、事件や事故があったとか、そう聞かされると感じるものあるでしょう。この感じというものは、仏教的に言えば外部的なものではなく、つまるところ内部的、すなわち自分自身の心の動揺である恐怖です。それが何かしら現出し、目の前に現象をもたらすのが幽霊であり、この現出・現象が明確な人はしばしば幽霊を見ることになるでしょう。

ただし、エラーするということもあるのではないかと、最近は考えています。即座に補正されるのでしょうが、宇宙はエラーと補正で成り立っているという側面もあろうかと思います。転生だってエラーすることもあるでしょう。死を迎えて業が発動するとき、何らかの間違いで部分的に何かが現世に残ってしまうこともあるかもしれません。それをたまたま誰かが見たのが幽霊と言えなくもない。補正されるので即座に消えるのかもしれませんが、そこでお坊さん登場となっていたのかも。

本当のところを知ることはできませんが、幽霊話がたくさん残されていることを考慮しますと、それだけ人には怨みや妬みの心、執着心があるということが分かると同時に、人の思考を超えたシステムのダイナミズムのなかに私があると感ぜずにはいられません。何事も知りたくなるのが人の性ではありますが、そっとしておくのが風情というものでしょう。

最後に、幽霊という存在は、仏教的に言えば自分自身への学びです。いきなり現れればビックリするものですが、認識できるものはすべて、私の心から出てきた存在なのです。
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2018年02月23日

仏教と貧困問題 〜ジョン・ヒックの言葉から

本稿は教区関連の仕事で用意しているものです(末尾を少し改訂しました)。

仏教と貧困問題 〜ジョン・ヒックの言葉から

<ジョン・ヒック>
宗教多元主義を提唱した宗教哲学者ジョン・ヒックは、仏教をキリスト教と比較して、「仏教のほうははるかに平和的であり、宗教戦争をひきおこすようなことはなかったが、貧困や社会的不正との戦いにはしばしば失敗してきた」と言う。

ヒックは宗教について、真理へいたる信仰というものは、それぞれの土地や文化に基づいた相対的なものであると見る。つまり、たとえばキリスト教であれば、その他の宗教がキリスト教に包括されるということはなく、人や地域によって多元的に併存するとする。簡単に言えば、それぞれの宗教には良い側面もあれば、悪い側面も必ず存在する。絶対的に正しい宗教というものは、あり得ないとするのである。

<民主主義>
冒頭に掲げた言葉は、「キリスト教は富とその富が可能にする財の創造を刺激促進することに貢献したが、不断の暴力と迫害の記録によってひどく汚されてもいる」という言葉に対応している。キリスト教は資本主義の蓄財には貢献したのだが、それは数々の差別の上に成り立っている。一方、仏教はこうした差別を生み出すことはなかったが、現実的な社会問題に向き合ったとき、教理的に極めて無力であった、ということだ。

また、ヒックは仏教やヒンドゥ教について、その「彼岸性」が社会的・経済的・技術的進歩を遅らせていると指摘する。たしかに、日本が近代化して西欧なみの富を手に入れたのは仏教の貢献ではなく、むしろ西欧的な民主主義を模倣した上に成り立っている。そして、これはキリスト教と密接なつながりがあるのだから、日本はヒックの指摘するような、キリスト教の功罪を受け入れたことになるかもしれない。

<インド仏教>
彼岸である涅槃に対して、此岸は迷いの真っ只中である。貧困など社会的問題は、すべて迷いの果ということになる。しかし、仏教では自業自得に基づいた還元主義的観察によって、より根源的な個人の煩悩根絶に目が向けられてきた。仏教は自己変革には積極的であるが、社会変革には無関心に近い。仏教のテーマは個人的問題に終始する。これは場合によっては、社会という果への諦め、厭世主義へと陥る因子を孕んでいる。

<浄土教>
大乗仏教において浄仏国土という考えが出てくるが、これは唯心思想によっている。自らの心が浄ければ、自から国土も浄くなるという考え方であるので、此岸の浄化に着目しているわけではない。この世界で心を浄めることができなければ、やはり極楽浄土など、別次元の彼岸に望みをかけることとなる。浄土教は原意的に見て、こうした彼岸性の典型であると言えるだろう。

<社会への関与>
仏教が貧困や社会的不正との戦いで失敗してきたということについて、ヒックが具体的に何を指しているのかは分からない。しかし、仏教に「彼岸性」はたしかに存在し、上述のような論理によるならば、貧困や社会的不正に対して、なかなか行動原理を導き出せないのも事実である。

日本仏教には先祖供養という「生業」があるが、それは本来、仏教の本道とは言い難い。先祖供養を抜きにしてもなお、社会に働きかけるだけの根拠を持ち得るのか、今、日本仏教は大いに試されていると言えよう。

<浄土真宗>
本願寺教団は、専如ご門主の「仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです」というご親教をいただき、ヒックの言うような「彼岸性」を乗り越えていく可能性を得た。凡夫ではあっても、自他平等に生きようとすることは可能であり、その結果として、貧困等の社会的問題にも関わっていくことができるだろう。

おそらく「仏さまのお心」というお言葉には、阿弥陀如来の慈悲心が含まれていると考えられる。慈悲とは他者を慈しみ、また、同じ立場となり悲しみを共有していくことである。『歎異抄』には「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々」とある。ご門主の仰せは、お念仏を申した先のあり方、つまり、私たち凡夫の歩み方をお示し下さっている。浄土真宗の慈悲は阿弥陀如来のご本願であり、それこそ「彼岸」からの妙用である。お念仏申しご本願をいただくことにおいて、「少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指」すことが出来るのではあるまいか。

(註略)


posted by 伊東昌彦 at 12:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge