2017年10月20日

情報の多さに疲れてしまう

最近はとにかくネットで多くの情報を得ることができます。中学生の頃だったか、父親から「情報化社会」という言葉を教えてもらいました。父親は広告代理店勤務でしたので、情報には敏感だったでしょう。様々な状況をあらかじめ知ることが出来れば、その対応も上手くいきそうな気がしますよね。

ただ最近、なるほどねと思える意見をしばしば目にするようになりました。知らなくてもいいことを知ってしまう危険性、言い換えれば、目にしなくていい、目にしないほうがいい情報もあるのだということです。SNSの流行によって、その恩恵に与ることも多いわけですが、SNS疲れという言葉も聞くようになりました。SNSから情報を得るということは、知人の意見や行動を知ることになります。面白いこともあれば、同時に面白くないこともあるでしょう。

かつて富野由悠季さんの『機動戦士ガンダム』において、「ニュータイプ」という概念が登場しました。これは恐らく、スターウォーズの「ジェダイ」というある種の超能力者に触発されたものだと思うのですが、独創的なことは、ニュータイプはテレパシーのようなものによって、人と人とが本当に「分かり合える」ことが出来る能力を身につける、というところにあろうかと思います。

ガンダムはニュータイプを中心とした戦争アニメなのですが、ニュータイプは相手の行動を先読み出来るがため、どんどん戦争の道具にされてしまいます。戦闘において有利だからです。富野アニメというものは、人の愚かさをまざまざと、しかも小学生相手に見せてしまうところに醍醐味があります。主人公はニュータイプとして覚醒し、その真の意味を悟るわけですが、自らは戦闘に埋没していってしまいます。

劇中、物語も佳境に入っていくとき、主人公に近い登場人物が「人がそんなに便利になれるわけ・・・ない」という台詞を語ります。大人になって、そして仏教の勉強をしている今、私はこの台詞がガンダムにおいて最重要なものだと感じます。相手の気持ちを情報として知ることができても、果たして私たちはその情報をうまく使いこなし、相手と分かり合えるような行動を取ることが出来るでしょうか。

これは大変難しいことでしょう。おそらく無理です。情報過多になるからです。

人は物事を忘れます。忘れなければいいのになあと思うかもしれませんが、忘れないと情報がありすぎて脳が処理できないのでしょう。忘れることも大切なのです。いらんことは全て忘れてしまいましょう。そのほうがきっと楽になれるはずです。つまり、知って記憶しておかなくてもよいことはたくさんあり、物事を知るということは、逆に私たち人にとって苦痛を生み出す原因にもなるわけです。相手の真の姿を知ったところで、困るのは私のほうなのかもしれません。

仏教においては、常に私という意識は自分中心で物事を思考していると説きます。親が子を守る行動のように例外的なものもありますが、ほとんどが自己中心的です。相手の情報を十分に知り得たとしても、余計に腹が立つということは、往々にしてありそうなことです。立派なところばかりに目がいってしまい、嫉妬の心で苦しむことになるでしょう。嫉妬というものは、自分がより優れていないと気が済まないという、自己中心的な思考の典型例です。また、相手が苦しんでいるところを見れば、思わず上から目線でお世話したくなってしまうのも、実は同じ思考だと言えなくもないでしょう。自分が優位であるという前提あっての行動という側面もあるからです。

仏教が余計なことは知らなくていいと説いているわけではありませんが、その対応力が人にあるのかと言えば、どうにも上手くいかないことが多いのが人だと説いています。知らなくてもいいことは沢山あるようですし、あまり無理するのはやめておこうと、最近よく思います。

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2017年10月11日

中村元東方学術賞

昨日はインド大使館で中村元東方学術賞の授賞式でした。武蔵野大学でお世話になりましたケネス田中先生が受賞されましたので、私も後方に参列させていただきました。

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先生のご経歴はもの凄いものがあるのですが、私はそのなかでも浄土教についてのご指導をいただきまして、そして、さらに日本的ユーモアのご研究についても、多様性という視点における重要性を教えていただきました。

先生、おめでとうございました!!


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2017年09月29日

浄土和讃から

大経讃 六十九首 

「善知識にあふことも をしふることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」

皆さん、馬が合わない方はいますでしょうか?正直に申し上げまして、私は数人います。嫌いというわけではないのですが、とにかく苦手なのです。たとえば、こちらが言うことに何かと批判的な人。否定された言葉が返ってきますと、どうも下に見られているような気がして落ち着かない。相手の顔を見ると悪気はなさそうですが、こちらは勝手に面白くなくなるわけです。馬が合わないんだなあと、ひとまず自分を納得させています。なんとも情けない話です。

自分に手厳しい人というのは、まるで親のように感じるからでしょうか。子供扱いされるのはあまり心地よいことではありません。もっとも、最近の親は厳しいと言うよりは、友達感覚の親子が多いとも聞きます。仲の良い親子は結構なことですが、子供の躾がいい加減ですと、逆に子供にとっては不利益になることもあるでしょう。少し前の話ですが、子供の悪戯に困り果てた喫茶店が、悪戯を放置する親の入店を断る措置をしたそうで、インターネットでも話題になっておりました。子供は悪戯をしながら成長するものです。しかし、同時に親から叱られることがないと、子供は自分自身を省みる機会を得ることが出来ません。

仏教では自分を教え導いてくれる存在を「善知識(ぜんちしき)」と呼びます。善知識は居心地のよい相手とは限りません。居心地がよいだけの相手は、裏を返せば都合通りということです。心地よい言葉だけが返ってくるので、頭に来ることもありません。とても都合が良いわけです。しかし、自分の都合というものは、自分勝手という側面も必ずついて回るものです。冒頭での私の話も同じこと。批判的であるということは、私の意見にどこか問題があるということに他なりません。間違いを指摘されるのは気分のよいことではありませんが、気づかなければ間違えたままです。

人の意見をよく聞くということは、簡単なようで難しい。仏教は耳の痛いことばかり言うところがあります。「諸行無常」と説くならば、物事移り変わりのなかにあり、私もいつかは死に行きます。「一切皆苦」と説くならば、人生山あり谷あれど、すべては苦悩の連続です。こんな調子ですので、あまりハッピーな気分になるものではありません。しかし、どうでしょうか。いずれも間違いではなく、それを受け入れようとしない私のほうこそ、冷静に考えれば間違えているわけです。

真実を見つめることが出来ないのは、私どもが自己都合の煩悩まみれだからでしょう。迷いの世界に生まれることを輪廻転生(りんねてんしょう)と言いますが、まさに行き場もなく、ぐるぐると回っているだけなのです。耳を傾けることすら出来ないのですから、善知識に出会うことも難しく、すでに救われていることすら気づこうとしません。しかし、だからこそ阿弥陀如来は、私どもに一歩先んじてお救い下さっているのです。まずはよく聞いてみるということ、これこそ浄土真宗の仏道であると言えましょう。

※本稿は「やさしい法話」へ寄稿したものの原文です。

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2017年09月24日

金太郎ウォーク

昨日は第6回金太郎ウォーク(南足柄市・伊豆箱根鉄道共同開催)でした。400名以上の方がご参加されたとのことで、善福寺にもたくさんの方が来られました。晴天で良かったです。

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しかし、すみません。御朱印を求められる方がこうした企画にはいらっしゃるのですが、浄土真宗には御朱印そのものがありません。申し訳ないと思いつつ、六福寺用のスタンプで我慢していただいております。
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2017年09月23日

経論の教えから『唯識三十頌』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その2 『唯識三十頌』

仮に由りて我法ありと説く。種々の相転ずることあり。彼は識の所変による。

我法(がほう)とは我と法に分けられます。我は自分自身だと思って良いでしょう。自分としての主体です。法とはこの宇宙のすべての存在です。名前をつけられるものすべて。我と法について、私たちはちゃんと存在していると思っています。そりゃそうですよね。自分は今ここにいますし、周囲の事物の存在を認めることも容易です。あたり前です。しかし、そのあたり前に落とし穴があることに、私たちはあまり気がつきません。こうした我法は真実在ではなく、仮(け=かり)に存在するのだと言います。仮という言葉は仏教ではとても重要なので、憶えておいていただけると良いかもしれません。

仏教では事物の存在に気づいたとしても、それは仮にそうあるだけであり、個別性を即座に認めるということをしません。言い換えれば、机を見たならば、私たちは「机」だと普通に思うことでしょう。しかし、机というものは、そもそも木材の集合体であり、バラバラにしてしまうことが可能です。「机」という名をもって仮に存在を認めているものが机なのであり、本性は別のところにあることになります。

なぜこのような見方をするのかと言いますと、事物への執着心が私たちの苦悩の根源にあると考えるからです。執着する対象、たとえば大事な机など、大事で仕方がないという思いが、時には自分を苦しめることにもなります。よく考えてみますと、私たちの苦悩というものは、何かを大事に思いすぎているというところに発すると言えます。ただ、その対象というのは、執着するような個別性があるわけではなく、自分が勝手に真実在のように思いこんでいるだけなのです。

事物の相(=すがた)は私たちの見方によって変化(=転)します。机と見るのか、それとも木材と見るのか。私たち一般の使用者と、机を製造している方とでは見方は異なることでしょう。事物というものは、私たち一人一人の心のあり様(=識)によって、まったく異なるように見えてくる可能性があるのです。そうであるにも関わらず、仮に名をつけて、便宜上、そう用いているものに対して執着心を持ってしまう。まったく見当はずれな苦悩を、他でもない、自分自身が作り上げてしまっているわけです。

のこす記憶.com
https://nokosukioku.com/note/
posted by 伊東昌彦 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge