私、今年で52歳なのですが、世界情勢や国内情勢というものは数十年で本当に変化するものなんだ、歴史のなかに自分も生きていたんだなあと実感しています。正直なところ、30代ぐらいまではまったく感じていなかったと思います。歴史というものは過去の積み重ねだからこそ変化を読み取れるものなんだと、そして、もっと変化は緩慢なのだと思っていました。違ってたみたい。
ここで敢えて詳細を書く意味はありませんので省略しますが、世界では冷戦終結、国内ではバブルからバブル崩壊後に10代を送った私からしますと、今、その後の30年を振り返り、まったく信じ難いことの連発です。もしかしたら、私が思っている日本という国は、今後、何か別の国のように思えるほどの変化があるかもしれません。政治や経済のことは私には難しいので書けませんが、文化が変わってしまうかも。
私は日本に育てられました。私のこうした「日本人」としての感覚は、おそらく20代までには完成していると思えます。同じ「日本人」でも時代によって感覚は多少異なるものでしょうが、日本の社会で生活をし、日本の義務教育を受けていれば、根底に流れる文化的流れは受け継ぐことが可能でしょう。もちろん、義務教育の現場では変化があるでしょうが、根底を揺るがすことにはまだなっていないと思えます。
今、日本はおそらく、経済的に外国人に頼らないと難しい局面にあります。内需の減退はもちろんですが、国内労働力も枯渇していると言えそうです。鎖国でもしようものなら、一気に国力衰退の憂き目にあうこと間違いなしだと思えます。だからこそ、政界も経済界も外国人に頼り、外国に投資を呼びかけ、外国人の入国に便宜を図っているのでしょう。
歴史を振り返って見るならば、現代日本の文化的様相というものは、当然、古代から中世にかけて中国大陸や朝鮮半島、そしてさらに言えば西アジアやインドからも影響を受けながら、それらを日本的に受容し、近世においてさらに熟成が施され、近現代において欧米の洗礼を受けつつ出来上がったものなのでしょう。私はアジア文化も大好きですが、欧米文化も大好きです。
日本文化は世界的に独特であると言われたりもしますが、単独で発祥したわけではなく、周辺の文化を取り入れながらも、自分たちの好みで改造していったからこそ独特なのだと思います。これは仏教でも同じで、日本仏教はインド仏教や中国仏教に比して独特であり、「日本人」に合うように改造されています。だからこそ現代でも残っているのだと思います。
そして、こうした日本文化の担い手は紛れもなく「日本人」なのであり、「日本人」は意識することなくその文化を支え、そのなかで生きています。北海道から沖縄まで、東西南北で多少の異なりはあります。当たり前ですが、北海道と沖縄では文化の形成過程に違いはあります。しかし、大枠において日本文化なのであり、「日本人」にとってそこに大きな違和感を覚えることはほとんどないでしょう。
政治や経済の側面からは領土や領海の防衛は必須事項であり、局地的な意見の相違はあるものの、日本という国はそれによって国際的に認められています。しかし、文化の側面からすれば、こうした領海や領土があるから日本なのだとは言えないわけで、「日本人」が違和感を持つような文化が、敢えて言いますが蔓延してしまうようでは、日本は失われていまうのではないかと危惧します。
外国人と交流したり、外国人に頼ることを否定しているわけではありません。私たちが担っている日本文化は、前述のように外国人との交流や、外国人の力によって形成された側面もあります。互いに影響を与えることは無意味なことではなく、より良いものを生み出す呼び水にもなります。しかし、日本文化を壊す危険性を無視してまで外国文化を受け入れる意味はなく、それをしたら日本が壊れます。
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
2025年01月22日
2025年01月08日
寺院は仏教の伝道布教が使命
少子化の問題もありますし、家族のあり方の問題、そして、そもそも信仰の問題もあり、時代とともに寺院運営は変化をしていかねばなりません。伝道布教を核としながら、そこへいざなう様々な方法を寺院は編み出してきました。善福寺報恩講で行うお能も、そもそもは寺院を盛り上げ伝道布教するための興行であったそうです。たしかに内容を見ましても、仏教の教えにいざなう意図が感じられるものが多いようです。
全国各地の寺院(神社もおそらく同じだと思います)は、色々と工夫を凝らして、寺院が単なる歴史的な遺構や風景にならぬよう努力をしています。大切なことは、仏教の教えが今もなお、人々の心の安穏のためには不可欠なものであり、それを伝えることが寺院の使命であるということを忘れないことだと思います。
盛り上がればそれで良いというのは間違いです。
わが宗派、浄土真宗本願寺派も、かつては盛り上がりや世間の注目だけを考えて単発的なイベントを開催したこともあります。結果、その時は何となくメディアに取り上げられたりもしましたが、その時だけです。伝道布教にはつながらず、むしろ坊さん何してんだよ、という冷笑を浴びたのではないかと危惧されます。
一般寺院も同じです。
仏教に無関係のイベントを開催したところで、たしかに寺院には足を運んでもらえますが、そこに教えがないと意味がありません。言い換えれば、坊さんの自己満足で終わってしまう可能性が高いのです。寺院として社会に貢献できることは、何事であっても教えが根本になければなりません(実は宗教法人に関する法律からも、そう言えます)。他に担ってくれる組織は、行政や会社法人やNPO法人や社会福祉法人、そして様々な任意団体など、いくらでもあります。
寺院で何かイベントをしますと、本堂も存在しますので、何をしても仏教的だと勘違いしてしまう場合もあるかもしれません。坊さんであっても、そういう勘違いをしてしまうのです。
たとえば、境内で骨董市をしたとしましょう。開催することを批判するつもりはありませんが、その場合、来られた方にとって境内は風景です。寺院に来訪するという意味もあるので、寺院としてまったく無意味な開催だとは言いません。しかし骨董市を開催するだけでは、伝道布教にはつながることはありません。
また、全国各地に様々な古事にもとづいた行事は残されていますが、そういったものが何でも仏教由来ということでもありません。
日本は古来、寺院と神社が合わさった形態での信仰を大切にしてきましたので、神道的な行事であっても、仏教的な味付けをして寺院で行うものもあります。しかし、神道は仏教のほか、中国の道教や神仙思想からも大きな影響を受けています。元来は神社で行うような行事を、新たに寺院で行おうとしたところ、実はその行事の源流が道教であったということもあり得るのです。
もちろんそうではあっても、歴史的な由来あって伝統的に寺院で行っていることもあるので、そこを批判するつもりはありません。私が吠えたいポイントは、今、寺院で何らかの行事を新たに計画するならば、ちゃんと伝道布教に結び付くような内容でないと意味がない、ということです。
世間は坊さんが感じている以上にちゃんと寺院を見てくれていますし、期待されているところもまだまだあると思います。ただ、的外れなことをしてしまうと・・・、今のような時代背景です、あっという間に寺院は歴史的な遺構となり、風景になってしまうことでしょう。
新年を迎えまして、自戒の意味も込め、ここに記してみました。
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
全国各地の寺院(神社もおそらく同じだと思います)は、色々と工夫を凝らして、寺院が単なる歴史的な遺構や風景にならぬよう努力をしています。大切なことは、仏教の教えが今もなお、人々の心の安穏のためには不可欠なものであり、それを伝えることが寺院の使命であるということを忘れないことだと思います。
盛り上がればそれで良いというのは間違いです。
わが宗派、浄土真宗本願寺派も、かつては盛り上がりや世間の注目だけを考えて単発的なイベントを開催したこともあります。結果、その時は何となくメディアに取り上げられたりもしましたが、その時だけです。伝道布教にはつながらず、むしろ坊さん何してんだよ、という冷笑を浴びたのではないかと危惧されます。
一般寺院も同じです。
仏教に無関係のイベントを開催したところで、たしかに寺院には足を運んでもらえますが、そこに教えがないと意味がありません。言い換えれば、坊さんの自己満足で終わってしまう可能性が高いのです。寺院として社会に貢献できることは、何事であっても教えが根本になければなりません(実は宗教法人に関する法律からも、そう言えます)。他に担ってくれる組織は、行政や会社法人やNPO法人や社会福祉法人、そして様々な任意団体など、いくらでもあります。
寺院で何かイベントをしますと、本堂も存在しますので、何をしても仏教的だと勘違いしてしまう場合もあるかもしれません。坊さんであっても、そういう勘違いをしてしまうのです。
たとえば、境内で骨董市をしたとしましょう。開催することを批判するつもりはありませんが、その場合、来られた方にとって境内は風景です。寺院に来訪するという意味もあるので、寺院としてまったく無意味な開催だとは言いません。しかし骨董市を開催するだけでは、伝道布教にはつながることはありません。
また、全国各地に様々な古事にもとづいた行事は残されていますが、そういったものが何でも仏教由来ということでもありません。
日本は古来、寺院と神社が合わさった形態での信仰を大切にしてきましたので、神道的な行事であっても、仏教的な味付けをして寺院で行うものもあります。しかし、神道は仏教のほか、中国の道教や神仙思想からも大きな影響を受けています。元来は神社で行うような行事を、新たに寺院で行おうとしたところ、実はその行事の源流が道教であったということもあり得るのです。
もちろんそうではあっても、歴史的な由来あって伝統的に寺院で行っていることもあるので、そこを批判するつもりはありません。私が吠えたいポイントは、今、寺院で何らかの行事を新たに計画するならば、ちゃんと伝道布教に結び付くような内容でないと意味がない、ということです。
世間は坊さんが感じている以上にちゃんと寺院を見てくれていますし、期待されているところもまだまだあると思います。ただ、的外れなことをしてしまうと・・・、今のような時代背景です、あっという間に寺院は歴史的な遺構となり、風景になってしまうことでしょう。
新年を迎えまして、自戒の意味も込め、ここに記してみました。
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
2025年01月01日
令和7年1月の掲示板
元旦はめでたいものですが、平凡な毎日だってめでたいものです。今年も日々生かされていることに感謝したいと思います。よろしくお願いいたします。 合掌
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
2024年12月20日
性別について仏教的に思う
男女の性別に関する問題は、仏教が生まれた2000年以上前のインドでも何らかあったようです。仏教の経典は、まとめられて今に残る形態になったものは2000年前、つまり紀元前後編集のものが多いわけですが、性別があるが故に人々が思い悩んでいたんだろうなと想起させる描写が見られます。たとえば、僧侶は「出家」することにより異性との交わりを絶つことが原則的には推奨されます。また、仏教的な理想国土としての色彩が強い「極楽浄土」は、性別そのものが存在しないという描かれ方をされます。
仏教としては、人の愛欲や性欲の激しさが課題であったということなのでしょう。「極楽浄土」では性別なしということからは、もしかしたら男女という性別そのものに課題があったのかもしれません。そんなに問題であれば、ないほうが良いだろうということです。経典の背景にある当時の社会事情は私にはわかりませんが、こう想起することは可能ではあります。
しかし一方、仏教では身体を重視しないという根本的な見方があり、自分の身体には執著せず、身体を身体たらしめるのは心なのだとします。性別も含め、どのような身体的個性で生まれたのかは、自分自身の過去世からの「業」(ごう、行為とその影響)によります。これは現世では変更不可能です。努力によって外形的にはある程度満足いく身体的個性を得ることは可能ですが、遺伝子も含め完全に変更することはこれからも不可能でしょう。
「業」は心に蓄積されており、来世以降により良い身体的個性を得るには、現世で心を「善業」で満たし、好ましくない身体的個性を生じさせる「悪業」の芽を摘んでしまうしかありません。だからこそ現世においては、自分が受けた身体的個性は受け入れるしか術がなく、そこに執著してしまうことは、むしろ逆に自分自身を苦しめることになります。言い換えれば、無理な欲求を通そうとしていることになり、際限なくその欲求に苦しめられることになるのです。道理が引っ込むことはありませんし、無理な欲求が増せば「悪業」をさらに蓄積させます。
一見、仏教の考え方は過酷なものにも映りますが、「生まれ」は抗いようのない事実でもあり、私たちにはどうすることもできません。仏教ではこうも説きます。「生まれ」で立派な人になるのではない。「人生の歩み」によって立派な人になっていくのだと。「生まれ」は時に残酷なものですが、「善業」を積んでいく、すなわち善い行いをして生きるということに光明を見いだそうとするのです。
昨今、仏教をはじめとした宗教のなかのみならず、人類的課題として性別の問題が明確になってきています。「生きたいように自由に生きる」ことは生命として当然のことです。しかし、その「生きたいように自由に生きる」ことのつもりが、結果として自分を苦しめることになる場合もあります。どう生きるべきなのか、その時の欲求に全面的に従うべきなのか、それとも基本的には身体的個性を受け入れ、ある程度の欲求充足で満足すべきなのか。仏教的視点で再考してみるならば、少欲知足、欲を少なく足るを知るという生き方こそ、正しい「生きたいように自由に生きる」なのではないかと思えます。
性別について、私は思うのです。
男女という順番で言うならば、女っぽい男でもいい、男っぽい女でもいい、生まれ持った身体的個性を受け入れながらも、そこからどう生きるのか。ステレオタイプの男や女である必要はありません。自分らしく、自分における男で、自分における女で生きればいい。
本当の問題点は、こうした男女論を認めない封建的な見方や考え方の存在です。これがあるから生きにくい。今、世に蔓延しているステレオタイプの男女論は、封建的で一方的、きわめて狭小的で不見識なものです。男女という性別のあることが問題なのではなく、こういう男、こういう女、ということしか認めない考え方や見方のあることこそが問題なのです。
男という身体的個性、女という身体的個性。その上でどう生きるのか。他人がとやかく言うことではありません。男が女に寄せてもいい、女が男に寄せてもいい。自分が受けた性別を無理に変更しなくても済むような、自由に生きることのできる世の中になって欲しいなあ。
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
仏教としては、人の愛欲や性欲の激しさが課題であったということなのでしょう。「極楽浄土」では性別なしということからは、もしかしたら男女という性別そのものに課題があったのかもしれません。そんなに問題であれば、ないほうが良いだろうということです。経典の背景にある当時の社会事情は私にはわかりませんが、こう想起することは可能ではあります。
しかし一方、仏教では身体を重視しないという根本的な見方があり、自分の身体には執著せず、身体を身体たらしめるのは心なのだとします。性別も含め、どのような身体的個性で生まれたのかは、自分自身の過去世からの「業」(ごう、行為とその影響)によります。これは現世では変更不可能です。努力によって外形的にはある程度満足いく身体的個性を得ることは可能ですが、遺伝子も含め完全に変更することはこれからも不可能でしょう。
「業」は心に蓄積されており、来世以降により良い身体的個性を得るには、現世で心を「善業」で満たし、好ましくない身体的個性を生じさせる「悪業」の芽を摘んでしまうしかありません。だからこそ現世においては、自分が受けた身体的個性は受け入れるしか術がなく、そこに執著してしまうことは、むしろ逆に自分自身を苦しめることになります。言い換えれば、無理な欲求を通そうとしていることになり、際限なくその欲求に苦しめられることになるのです。道理が引っ込むことはありませんし、無理な欲求が増せば「悪業」をさらに蓄積させます。
一見、仏教の考え方は過酷なものにも映りますが、「生まれ」は抗いようのない事実でもあり、私たちにはどうすることもできません。仏教ではこうも説きます。「生まれ」で立派な人になるのではない。「人生の歩み」によって立派な人になっていくのだと。「生まれ」は時に残酷なものですが、「善業」を積んでいく、すなわち善い行いをして生きるということに光明を見いだそうとするのです。
昨今、仏教をはじめとした宗教のなかのみならず、人類的課題として性別の問題が明確になってきています。「生きたいように自由に生きる」ことは生命として当然のことです。しかし、その「生きたいように自由に生きる」ことのつもりが、結果として自分を苦しめることになる場合もあります。どう生きるべきなのか、その時の欲求に全面的に従うべきなのか、それとも基本的には身体的個性を受け入れ、ある程度の欲求充足で満足すべきなのか。仏教的視点で再考してみるならば、少欲知足、欲を少なく足るを知るという生き方こそ、正しい「生きたいように自由に生きる」なのではないかと思えます。
性別について、私は思うのです。
男女という順番で言うならば、女っぽい男でもいい、男っぽい女でもいい、生まれ持った身体的個性を受け入れながらも、そこからどう生きるのか。ステレオタイプの男や女である必要はありません。自分らしく、自分における男で、自分における女で生きればいい。
本当の問題点は、こうした男女論を認めない封建的な見方や考え方の存在です。これがあるから生きにくい。今、世に蔓延しているステレオタイプの男女論は、封建的で一方的、きわめて狭小的で不見識なものです。男女という性別のあることが問題なのではなく、こういう男、こういう女、ということしか認めない考え方や見方のあることこそが問題なのです。
男という身体的個性、女という身体的個性。その上でどう生きるのか。他人がとやかく言うことではありません。男が女に寄せてもいい、女が男に寄せてもいい。自分が受けた性別を無理に変更しなくても済むような、自由に生きることのできる世の中になって欲しいなあ。
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
2024年12月06日
ペダン星人の警鐘
私は『ウルトラセブン』が好きで、再放送からですが幼少時代から鑑賞してきました。今でも鑑賞しています。幼少の頃は、とにかくメカやその発進の格好良さに感動したものです。大人になっても見続けているのは、メカのこともありますが、やはり社会への警鐘が盛り込まれているからです。これは他の「ウルトラマン」でも言えることでしょう。「新マン」はとくにその点が強いかもしれません。あと、曲がカッコいい。セブンと新マンの曲は偉大だと思います。
さて、『ウルトラセブン』には有名なキングジョーという敵メカが出てきます。3体に分離合体するという、少年少女には衝撃的なギミックが魅力です。このキングジョーを操作?なのか、まあ、操っていたのはペダン星人という人たちなのですが、ペダン星人は地球を一方的に攻撃してきたわけではありません。地球がペダン星を無許可で観測し始めたため、ペダン星人は疑心暗鬼になり激怒して、キングジョーを使って報復してきたというお話です。
地球人科学者に化けたペダン星人は、ウルトラセブンことモロボシダンにこう言います。
「他人の家を覗いたり、石を投げたりするのはルールに反する事だわ」
ウルトラセブンは1967年の放送です(ちなみに私は1973年生まれ)。戦後22年ですね。今、2024年ですから、22年前って言えば2002年です。50代のおじさんからすれば感覚的には最近だなあ。戦争について生々しい感覚が残っており、日本という国について、様々な意見が出されていた時代かなと想像します。そういう時代背景もあってか、ペダン星人は上記のような発言をすることになります。
しかし、これだけでは警鐘と言うほどのこともないでしょう。
この発言を受けたモロボシダンは地球が武力行使をしないことを約束します。ペダン星人も事実上、キングジョーの撤退を約束しますが、その約束をペダン星人は反故にします。地球を油断させておいて、一気に攻めることに方針転換したのでしょう。
これこそが警鐘なんだと思えます。
他国への干渉はご法度なこと当然ですが、相手がどう出てくるのかは分からない。誤解を招くような行動は慎むと同時に、他国との関係性には常に敏感にならないといけないことでしょう。
他者がいるから私がいる。私がいるから他者がいる。
何事も相互関係で存在していること、肝に銘じておきたいものです。それが、日本という国の存在にかかってくるわけですから。
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
さて、『ウルトラセブン』には有名なキングジョーという敵メカが出てきます。3体に分離合体するという、少年少女には衝撃的なギミックが魅力です。このキングジョーを操作?なのか、まあ、操っていたのはペダン星人という人たちなのですが、ペダン星人は地球を一方的に攻撃してきたわけではありません。地球がペダン星を無許可で観測し始めたため、ペダン星人は疑心暗鬼になり激怒して、キングジョーを使って報復してきたというお話です。
地球人科学者に化けたペダン星人は、ウルトラセブンことモロボシダンにこう言います。
「他人の家を覗いたり、石を投げたりするのはルールに反する事だわ」
ウルトラセブンは1967年の放送です(ちなみに私は1973年生まれ)。戦後22年ですね。今、2024年ですから、22年前って言えば2002年です。50代のおじさんからすれば感覚的には最近だなあ。戦争について生々しい感覚が残っており、日本という国について、様々な意見が出されていた時代かなと想像します。そういう時代背景もあってか、ペダン星人は上記のような発言をすることになります。
しかし、これだけでは警鐘と言うほどのこともないでしょう。
この発言を受けたモロボシダンは地球が武力行使をしないことを約束します。ペダン星人も事実上、キングジョーの撤退を約束しますが、その約束をペダン星人は反故にします。地球を油断させておいて、一気に攻めることに方針転換したのでしょう。
これこそが警鐘なんだと思えます。
他国への干渉はご法度なこと当然ですが、相手がどう出てくるのかは分からない。誤解を招くような行動は慎むと同時に、他国との関係性には常に敏感にならないといけないことでしょう。
他者がいるから私がいる。私がいるから他者がいる。
何事も相互関係で存在していること、肝に銘じておきたいものです。それが、日本という国の存在にかかってくるわけですから。
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
永代供養のご案内
善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。
善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
2024年12月02日
令和6年12月の掲示板
毎日の繰り返しのように思えても、実際には同じ日は二度と来ません。今日を生きることをまず大切にしたいものです。かけがえのない1日に感謝。
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0
善福寺のサイト↓
https://www.zempukuji.or.jp/
善福寺のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/zempukuji/
のこす記憶.com↓
https://nokosukioku.com/
住職・伊東昌彦のフェイスブック↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609
住職・伊東昌彦の動画チャンネル↓
https://youtube.com/@ihigashishowgen?si=rj9QuXvNQAo_tYW0